街を歩いていると人々が普通に生きている。その姿がどんなに自分を傷付けるかということは、喪失感の中にいる人々にしかわからないことかもしれない。街を歩くということは、時に逃避になる。人混みの中に身を投じることで、自分を無とすることができたりする。

人がいる空間で読書をするというのも一つの逃避だ。自分だけの世界を作ることができる。そして一人で部屋にいて読書をするよりも、大勢の中で読書をする方が圧倒的に集中できたりする。それは心のどこかに逃避願望が隠されてのことではないだろうか。電車の中、会社の休憩室、喫茶店、人がいる空間で自分だけの空間を作ろうとする時には読書は最適だ。

本を閉じ、また街を歩き始める。その瞬間、自分と他者のギャップに気が付くことがある。

どうして皆、あまりにも普通に生きているのだろうか。

いや、単にそう見えるだけなのだが、そう見えてしまうのは喪失感の中にいる疎外感から来るものだ。そして、一人部屋へ帰ると、ふーっとため息が出たりする。

そんな日々を送りながら考えることがある。

私の場合は何のしがらみもなく、どこまでも自由というものを与えられているが、心は全くと言っていい程自由とはかけ離れている。

臆病者で、人の顔色を気にする。言葉一つ発するにもびくびくしながら、いちいち頭を使って話をする。そんな殻を破りたいから突拍子もない行動に出たり、敢えて腹の中にあることをズバッと言ってしまったりする。そして、またびくびくする。本当にこれを言ってしまって良かったのだろうか。いや、確かにここでは誰かがハッキリと言うべきだったのだ。

だから私の発言はきっと間違っていなかっただろう、という確認作業に入る。しかし、私は全く気にしていませんよという態度を取る。何も考えず、腹の中にあることをズバッと言って、後には引きませんよという振りをしているだけだ。本当は、考えて、考えて、恐る恐る発言し、時に自己嫌悪に陥ったりしているというのに。

好きな人に対して、好きと言えないのも一つだ。会いたくても会いたいと言えない。あんまり言うとうざいと思われるのではないだろうか。勘違い女だと思われても困るから様子を見てからにしよう。そんなことばかり考えてびくびくしながら相手の顔色を窺(うかが)ったりしている。嫌われるのが怖いからだ。しまいにはそんな自分に疲れてしまって、なんとなく自分から遠ざかってしまうこともある。

一体私のどこが自由なのかと思ったりもする。行動に制限がないというだけで、全く自由に生きていない気がする。もっと楽に生きる方法が必ずあるはずなのに。