「また、磯部太鼓か。色気も何もありゃせん。来年は婦人部の踊りでも考えたらどうかのう、事務局長」

手に持ったロングの缶ビールはほとんど空になっている。ツマミ用の折詰とともに先程配られたものだ。言われた事務局長は苦笑いを返した。

「いいや、磯部太鼓はここぞというときに披露する男の太鼓じゃ。色気なんぞはいりゃせん。腹に晒をぎゅっと巻いて力任せに叩きだす単純な拍子やけど、これが伝統の音というもんじゃ。この地方から絶やしてはならん音じゃ。来年から止めよとは飛んでもないことを言う奴じゃ。お前は、郷土の伝統芸能を何と心得とる」

最前列中央に座っていた老人が睨むような視線で振り向きながらそう言うと雑貨屋の亭主はバツが悪そうに横を向いてしまった。そう言ったのは商工会の会長で水産会社の社長だった。

老人は、一介の漁師から水産会社を興し、港町で一、二番の規模を誇るまでに育て上げた伝説の士であり、気性の荒い漁師たちから一目置かれた存在だった。雑貨屋の亭主など歯牙にも掛けない高圧的な物言いだった。

老人は漁師のときに習い覚えた磯部太鼓の名手でもあり、振興のために多額の寄付もしていた。パイプ椅子の席に会長に追従するような声が上がり、言われた雑貨屋の亭主を非難するような冷笑も起った。

席に着いた者たちの誰が横柄な態度を取り、誰が卑屈な態度を取るのか最後の列の端から眺めているとこの小さな港町の権勢の縮図を見ているような気分にさせてくれた。

いつも漁火で悪口の対象としている人物の前で太鼓持ちかと見間違うほどに愛想よく振る舞う者たちの姿は滑稽を通り越して生きることの厳しさを美紀に感じさせた。

小さな港町にも歴然とした権力の序列があり、上に逆らうには覚悟がいる。弱い立場に立つ者は悲しいかな長いものに巻かれてしか生きてはいけない。

漁火で客の口から出る侮りや陰口はそんな屈辱で負に傾いた自らの心のバランスを懸命に取ろうとする弱い男たちの切ない手段なのだろうと美紀は気の毒になった。同時に、こんな小さな港町でも背比べをしようと足掻く男たちを哀れにさえ思ったのだった。

夕闇が迫り一段と濃くなった潮の匂いのする浜辺で生暖かい風に吹かれながら花火の上がるのを待つそんな男たちの様子を見ていると、ふと自殺した父のことが頭に浮かんだ。男の甲斐性だと浮気をした父もこんな詰まらない男たちの仲間だったのだろうか。

花火が上がり始めると美紀はこっそりと招待席を離れた。それ以来寄付集めはするが招待席に座ったことは無かったのだった。

【前回の記事を読む】2時間あまりの愚痴に絶妙のタイミングで相槌を打つ彼女――流した涙もそっと差し出されたハンカチで拭い…

次回更新は1月26日(日)、22時の予定です。

 

【イチオシ記事】「歩けるようになるのは難しいでしょうねえ」信号無視で病院に運ばれてきた馬鹿共は、地元の底辺高校時代の同級生だった。 

【注目記事】想い人との結婚は出来ぬと諦めた。しかし婚姻の場に現れた綿帽子で顔を隠したその女性の正体は...!!