私(西野鉄郎)は高校生に英語を教えています。N(西野作蔵)君は私の塾のOBです。上智大学の2年生で、ロシア語を専攻しています。帰省中の冬休みのある日、私たちは茶房古九谷(九谷焼美術館内)で会いました。話は弾み、3日連続で、「織田信長と古九谷」について話し合いました。

1日目 新信長論 利家と信長

『国盗り物語』(司馬遼太郎)、『織田信長』(山岡荘八)によって植え付けられたイメージはなかなか払拭できませんが、本章(1日目)はこうした織田信長像からかなりかけ離れています。小説ではなく、一種の論考のような内容を持っている本作品の導入部としては、読者の興味を引きつける内容です。

織田三代

(3)信秀の知略は竹中半兵衛を凌ぐ

:ところで竹中半兵衛を知ってるよね?

N:秀吉の軍師で、知略、神のごとしでしょう?

:信秀の知略は竹中半兵衛以上なんだ。

N:そうなのですか? 半兵衛の知略といえば、難攻不落の稲葉山城をたった16名で、しかも、知略で乗っ取る。『国盗り物語』(司馬遼太郎)で読みました。そして信長が秀吉に命じて、三顧の礼で半兵衛を迎える。

:それ、信秀の話だよ。

N:どういうことですか?

:稲葉山城が那古屋城で、半兵衛が信秀。つまり信秀(半兵衛)が那古屋城(稲葉山城)を知略で今川氏豊(斎藤龍興)から乗っ取る。しかも、なんと信秀も半兵衛とまったく同じ知略でだよ。

N:信秀は半兵衛に並びますね。

:さらに作蔵君を驚かせよう。

N:信定も同じ調略で?

:そうではない。竹中半兵衛の稲葉山城の調略の話は、三国志の諸葛孔明の話を下敷きにしたなんと作り話なんだ。

N:え!

我が青春の桶狭間 義元左文字

:さて桶狭間に急ごう。ここでは今川義元からの戦利品、刀の話をしよう。その名を「義元左文字」という。刀は合戦のたびに信長の腰にあり、本能寺へも携える。変後、秀吉に渡り、秀頼、家康へ。そして家康は大坂の陣で佩くんだ。

N:信長の刀を、豊臣を滅ぼす大坂の陣で、家康が差したのですね。

:柄の部分に入手日と持ち主の名前がある(「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」、「織田尾張守信長」)。

N:小学校の持ち物検査みたいですね。

:明治期に徳川家から明治天皇へ。そして明治天皇が信長を祀る建勲神社を創建して、義元左文字を奉納されたんだ。

天下布武

(1)「武」は「徳」

:次は本丸の「天下布武」に入ろう。「天下布武」には誤解がある。「天下布武」 は「武力で天下を治める」の意味ではない。信長から書状が届く。「天下布武」 の印判がつく。謙信や信玄ならどう思うだろうか?

N:「信長め、喧嘩売る気か!」

:そうだろ。だから「天下布武」は「武力で天下を治める」の意味ではないんだ。だって信長の書状に憤慨した戦国武将は誰一人として伝わっていないんだから。

N:それならば武とは?

:武=徳だな。「天下布武」の「武」は「徳」であり、「七徳」の意味でもある。

N:「天下を徳で治める」?

:「天下に七徳を布く」。

N:当時は戦国の世です。戦国の世に徳の話を信長がするのですか?

(2)人材募集

:「天下布武」にはさらに別の意味がある。信長は「天下布武」のスローガンを掲げ、天下に人材を募集したんだ。「天下布武」には織田家の人材不足が背景にある。

N:え!

:「天下布武」に共鳴して織田家に有能な人材(明智光秀や足利義昭)が集まってきたのだ。信長の天下への飛躍はまさしく「天下布武」から始まったんだ。

N:光秀や義昭は教養人ですから「天下に七徳を布く天下布武」を理解していたでしょうが……。

:「天下布武」は沢彦が中国の史書「春秋左氏伝」で信長に教えた。沢彦は信長の名付け親でもあり、岐阜(井ノ口を解明)の名付け親でもある。

N:しかし、ほとんどが「天下布武」の意味を誤解したでしょうね。

:いや、そうではない。「天下布武」の「武」を武家の武と理解しただろう。

N:武家の武?

:公家(朝廷)でもなく、寺家(仏教勢力)でもない、武家の織田家が全国を統 一する。そう理解して、「天下布武」(人材募集)に応募したであろう。

N:武力の武でしょう?

私:既得権益をめぐり、公家と寺家と激しい抗争を続ける後年の信長をわれわれは知っている。しかし、それらが岐阜城で発布した「天下布武」のスローガンに早くも現れていたことを知るべきなのだ(「永楽通宝」の旗印の話は後ほど)。そうそう、飛躍は改名から始まるんだ。家康は松平から徳川へ、秀吉は木下から羽柴へ、そして孫正義氏は安本から孫へ改名してから飛躍が始まったんだ。そしてわが利家は金沢の地名を尾山に……。

N:尾山から金沢に、の間違いではありませんか?

:そうではない。金沢の飛躍は利家の尾山への改名から始まった。利家はその地を「信長の理想郷」にするために金沢を尾山に改名したのだ。

N:……。

:利家は一向一揆がつけた金沢という地名を嫌い、出身地の尾張にも似た尾山 に変え、尾山で「信長の理想郷」を目指したのだ。

N:それなら今現在金沢というのはなぜですか?

私:尾山は普及しなかったからだ。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。