作代の二歳下の妹・芳子は、東京で実践女子専門学校を卒業後、恵介の処女作『花咲く港』からコンビを組んできたカメラマン楠田浩之と一九四四(昭和十九)年に結婚している。

そして数年後、脚本家としてスタートしたのだが、昭和三十一年に封切られた恵介の映画『夕やけ雲』は、音楽は忠司、脚本は芳子と、木下家の兄妹三人が関わっている。

この映画に、作代の次女、当時十一歳の典子が出ている。典子の役は主人公の少年・洋一の妹で、貧しい魚屋の娘・和枝である。父が倒れて亡くなった後、船乗りになる夢を捨てて家業を継ぐ洋一と、大阪の親戚に養女としてもらわれていく和枝との別れのシーンが描かれていた。

和枝は大人しい娘だったが、丸顔のお下げ髪の典子にはぴったりで、典子は何回かの台詞をこなしていた。幼かった武則や私がちょい役で出た映画よりは、ずっと重要な役であった。

作代の娘たちは、それぞれ東京の短大や大学を卒業した。長女・保子は、恵介の薦めでイタリアへ勉強に行かせてもらい、典子や薫は二十歳になるとユースホステルで海外旅行に行っている。恵介は、若いうちから語学の勉強をすることの重要性を、初めてパリに行ったときに強く思い、姪や甥たちへの援助を惜しまない人であった。

その後、保子は、両親が探した浜松の男性と結婚して東京に住んだ。保子の夫は、恵介が松竹を辞めて設立した会社「木下恵介プロダクション」で働いた。

だが、恵介六十四歳、作代五十四歳頃より、兄妹二人の行き来は途絶えてしまった。その原因は作代の娘夫婦の「木下恵介プロダクション」の仕事上にあったようだ。

作代は、浜松で徳平が八十七歳で亡くなるまで、良き妻であったが、離れてしまった兄・恵介のことは、母のたまが生前口癖のように言っていた「奥さんがいないから」と言い、いつも心配していた。

八郎が静岡で起こした会社が、政二の次男・廣海によって大きくなった頃、八郎は、妹の作代と芳子、姪の安子を、静岡の隣の焼津のホテルに招いたことがある。温泉でゆったり過ごし、帰りには焼津の干物や静岡の山葵漬け、東海軒の鯛めしなどの土産や小遣いを持たせた。

そのときの様子を私(筆者)の兄・廣海は、三人ともとても楽しそうだったと言っていた。八郎もまた、兄として叔父としてのささやかなプレゼントができたことは嬉しかったに違いない。 

作代の三女・薫は、ギリシャ人と結婚して二人の子に恵まれたが、数年後離婚して帰国している。実家に戻った薫は娘の作代(ギリシャでは二番目の女の子は、妻の母親の名に命名するという仕来りがある)と一緒に、晩年の母・作代と暮らした。

末子で両親から一番かわいがられた薫は、大好きな母を自宅で親身に介護し、娘の作代と二人で見送ることができて幸せだったと思っている。

優しい娘と孫に支えられて、作代もきっと幸せな日々を送ったのではないだろうか。母のたま似で、誰にでも気を遣い、家族や兄弟を大切にした九十八歳の作代の死は、木下家八人兄妹の中で最後になった。二〇二〇(令和二)年四月五日である。

【前回の記事を読む】母の思いを受け継ぎ、兄・恵介の妹として生きなければならなかった長女の作代。98歳で亡くなるまで浜松の中山町の家で生涯を送る

 

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