普及の工夫と苦悩 太田雄貴

「本当はもっと試合数が多ければ方法も違う。試合数が限られているのであれば、極端な話、スナックでもカラオケパブでも『ここに行けば必ずフェンシング関係者に会える』という場所をつくりたかったんです。

そこではいつも試合の映像が流れていて、たまに選手が訪れることもあるし、学生時代にフェンシングをやっていた、という人もフラっと来て思い出話に花を咲かせる。

そういう場所があるだけでも十分だと思いましたが、日本フェンシング協会が主体としてやっていくのは公益法人である以上、現実的ではありません。

でも、人の関心がたくさんの方向に向けられている中で、どれだけ一年に一度、大きな大会をやったところで気持ちをつないでおくことは難しい。理想としては、年に一度の日本選手権はお祭りのようなもので、普段はフェンシングを見ない、見たことがないという人たちも集客する。

なおかつ月に一度、週に一度はどこかで試合が見られる、または関係する人に会える場所をつくることでコアなファンに足を運んでいただく。そこまで踏み込んで行くだけの時間とお金はなかった、というのが現実でもありました」

加えて、より多くの人にフェンシングを知ってもらうための〝普及〟を進めるために不可欠なのが子どもだ。

大人以上に移り気で、いきなり「フェンシングをやってみよう」と勧めたところで、剣を持つきっかけもなければ、触れる機会、見る機会もほとんどない。

1つのきっかけづくりで、なおかつ東京五輪への集客も視野に含めスタートしたのが小学校を中心とした学校訪問だった。

フェンシングクラブや地域のスポーツクラブでよくあるフェンシングの体験会や、フェンシング教室ではなく、本物のフェンシングを子どもたちに見せる場を提供する。

東京五輪の開催地である千葉県を中心に、現役選手やOB、OGと共に太田も参加。当日の進行を担うDJケチャップ(藤本芳則)氏と共にマイクを持って盛り上げるべく試行錯誤を繰り返しながら実施してきた。

少なくとも2人の選手が子どもたちに近い場所につくったピストで実技を見せ、最後は公式戦さながらに試合を行う。その迫力を伝えることはもちろんだが、フェンシングという枠だけに留まらず、応援する喜び、文化を育みたいというのも1つの狙いだったと太田は明かす。