鑑真号の雑魚寝畳部屋で日本へ
当時勤め先の西安理工大学での月給は94元(当時約1200円)しかなくて、給与は生活費に使われて全然残っていませんでした。しかも大学で授業したとき、一台150元の貴重な自転車を2台も盗まれて、大変貧乏でした。
このような貧しい生活状況を改善しようと思って、大学の知り合いと何かで儲けようと話し合いましたが、結局、空想で終わりました。
そのため来日の旅費はなく、ハルビン工業大学修士課程時の親友で北京の国営大手企業に勤務していた謝海波さんから、北京の日本大使館へビザの手続きに行ったとき2万円いただきました。大変助かりました。
そして、日本の物価は高いと聞いたので、歯磨き粉や靴下や衣服など必要な品物をいっぱい買って、荷物は合わせて約100キロになり、スーツケース3つに詰めました。そして上海と神戸の間を運行している鑑真号フェリーの片道2万円の一番安いチケットを買い、15人もいる雑魚寝の畳部屋で2日間かけて1991年7月15日、神戸港に到着しました。
税関を通るとき、煙草は一人20本しか持っていけませんが、私は煙草を一つも持っていません。そこで、船で知り合って同じ畳部屋にいた大連市役所に勤めていた一人の男性の依頼を受けて、私は彼の買った煙草を20本持って神戸税関を出て外で渡すという約束をしました。
しかしながら、外で一時間待っても彼は全く出てきませんでした。中へ戻るわけにいかないし、何か起こったかは全くわからなかったのです。
仕方がないので、そのまま神戸港へ出迎えに来てくださった小幡谷先生研究室の河野技師と一緒に電車に乗って福井に来ました。福井に来てから3日後、煙草を預かった彼から手紙をもらいました。
その日、神戸税関を通ったとき、彼の前には福建省出身の人がいたといいます。当時福建省の人は日本への密入国が多くて、大変検査が厳しかったので、彼らとアメリカ人を含めて7人はすべて一人ずつ別々に厳しく聞かれたのでした。
もちろん彼は密入国者ではないことがわかり、夜8時に税関を出たということでした。本当に大変でした。
電車に乗って大阪で乗り換えて福井に来ましたが、私は日本の電車や道路および建物のきれいさ、福井の街の人の少なさと車の多さに驚きました。私と同じ中国の留学生や外国人は日本に来て、やはり一番印象に残るのはその清潔さだといいます。