またひとり別の人物が現れ、同様に、ディスプレイを見ながら腕組みをして小首をかしげ、二人で話し込む姿が、君の視界にあった。

両耳の補聴器を外している君には、残念ながら二人の会話の内容は届かない。君は尋常小学校・中学校を通して水泳の選手であった。平泳ぎの競泳ではいつも一位だった。が、その時代に患った中耳炎が慢性化し、六十数年前のこと、当時君が勤務していた病院で左中耳の廓清術 (かくせいじゅつ) を受けたのだが結果は不完全。その後、永年かけてじわじわと炎症が進み、内耳に及びつつあったのであろう。

七年前のある日のこと、表参道駅の地下通路で、突然震度七ぐらいに相当すると思われるような強烈な回転性のめまいに襲われた。見通す地下通路が大きく左右に揺れ、天井がさかさまに映った。辛うじて駅中のとある店先のドアにしがみついて転倒は免れたが、店のおばちゃんが大声で「大丈夫ですかー」と、かけてくれた声は耳の底に残っている。

いま内視鏡検査のベッドに横たわっている同じ病院(A病院)の耳鼻科で、七年前に中耳の再廓清術を受けて炎症は完全に終息したが、重度の伝音性難聴が残った。その後、気の毒にも運悪く、健常であった右の耳が突発性難聴に二度も襲われ、重度の感音性難聴が残り、今は聴覚障害六級の障害者手帳の保持者となっている。

補聴器を外した君は、ほとんど無音世界の住人だ。結局、検査医は、肉塊の傍らにマーカーを残し、内視鏡検査を終わらせた。身支度を整えロッカー室を出た君は、看護師からすぐにレントゲン室に行くように告げられた。

君の心の中に住みついている【知らぬが佛】が、『ここでやっと役目は終わった』と呟いた途端、それまで小さくうずくまっていた【知ってる佛】が忽然と大きな姿に変容し、『これからは、このわしに任せなさい』と声を高めながら、急げとばかりにレントゲン室に向かう君を駆り立てた。

君の心のうちには【知らぬが拂】と【知ってる佛】が住んでいる。他の人は信じないだろうが君は信じている。信ずる理由があるからだ。

それは【知らぬが佛】は日常を保証し、【知ってる佛】はレッドフラッグを振って非日常を知らせてくれる、いわば二人の佛は、君の直観を支えるバックボーンのような存在であるのだ。