五月の終わりに結婚して、開通したばかりの新幹線で関東へ向った。心の半分は祖父母の元へ置き、新しい生活が始まった。

社宅は駅から近く、商店街の終わりの方にあった。八軒のこじんまりしたアパートで、社宅の人たちは関西の人ばかりで、言葉にも困らなかった。夫は出張が多く、関西のように知人や友人もいなくて心細かったけれど、もう誰にも気を使わなくてよかったので、見た目は明るく元気に過ごしていた。

しかし、祖父母のことはいつも気になり、そんな時は手紙を書くぐらいしかできなかった。時々、祖母から返事が来たが、薄くて力の入らないみみずのような文字だった。涙で一気に読むことができない。

そんな時、私も母になり男の子が生まれた。私の家族。毎日が三人で笑い、楽しく嬉しかった。祖母に赤ちゃんを見せたくて、三ヶ月経った時、大阪へ帰るとその喜びようは想像通りだった。

ようやく布団から祖母は起きて「ぼうや、可愛いね」と目を細め笑い、涙ぐむ姿にやっぱり帰って来てよかったと思った。しかし、おばは相変わらず気性が荒く、すぐに赤ちゃんを取り上げ、自分が抱いて外に行ってしまう。

私は何も言い返せず、せっかく帰ったのに悲しい思いだけが残った。祖父母の状況は何も変わらず、苦しく抑圧された生活をしている。

次の年に女の子が生まれ、ますます忙しく賑やかな生活になった。社宅にはお風呂が無く、三時になると小さい子を前に抱っこ、後ろにおんぶして大きなお風呂の用意を持ち、近くの銭湯へ行くのが日課だった。

商店街の魚屋さんが「頑張るね」といつも声をかけてくれた。返事もそこそこに、にっこり笑って銭湯に急ぎ、毎日子育てに一生懸命だった。そんな時に、祖母の急変が知らされた。二人の幼子を連れ、とにかく大阪へ行った。

祖母は奥の八帖の隅の方の布団の中で、息も可細く私がいくら呼んでも目を開けなかった。何も食べないで、水を少し飲むのがやっとだった。一週間後、大きい息を一度して祖母は亡くなってしまった。

泣いても泣いても涙が溢れ、泣ききれなかった。これで祖母の苦しみは無くなったのか、私の母が亡くなって二十五年。私の成長だけを楽しみに、どんな苦労にも耐えてきた祖母。祖父は静かに縁側に座っていた。どんなに悲しく淋しいのか、背中が震えていた。

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