砂の道
祖父にも、自分が身に付けた知識は、誰からも取られないと教わり、本や学校の勉強からどんどん吸収していった。
中学生になり、学校のテストにも順位が付けられ、廊下に五十番以内の名前が貼り出された。目立たない私はその中にいつも載ることを目標にしていた。
祖母は私の成長だけを楽しみ、苦しい毎日の中で二人だけの春のような一時だった。中学校では、家族のことを話す友だちが多くなり、兄弟が何人とか両親はこんな人だとか、私にも質問が来るようになり、複雑な家庭環境は話せず、いつも何とかごまかし笑うことで切り抜けていた。そんな時は、心の奥のある場所がとても痛くて辛い。
高校も希望の学校に受かり、祖母の喜びも大変なもので、近所の人に褒められると本当に嬉しそうだった。その頃、祖母は学校の先生の家のお手伝いさんとして働いていた。朝早くから夜遅くまで、私の学校の費用等を得るためにかなり無理をしていた。
高校生活は楽しかったが考えることがあった。この消極的な性格を何とかしたいと運動は大の苦手、嫌でも人と話さなければいけない新聞部に入部した。学校新聞とはいえ、本格的で近くの商店に広告を頼み、取材にも行き、少しは積極的になっていった。
三年生になり、地元の製造会社に入社して事務員として働いた。そんな時に祖母が転んで大怪我をして入院してしまった。私は会社の帰りに、時間があると病院に寄ったが、祖母は家にいるよりホッとしているように見えた。退院しても、身体は思うようにならず寝込んでいることが多くなり、日に日に弱っていくようだった。
私も就職して四年目になった時に、お見合いの話があり、断ることもできなくて、何が何だかわからないうちに、見合い相手の親戚の家へおばと行った。
不安だけが広がり、どうなるのかと思い席に着いた。初めて顔を上げ、相手の姿を見た。
びっくりしたのは、私の気持ちだった。
すぐに緊張が解け、あたたかい空気に包まれた。相手の人は、私の生い立ちを聞くこともなく、とてもおおらかだった。
転勤が決まっていて、その前に結婚したい様だった。この人なら結婚してもいいと強く思ったが、頭の中は祖父母をどうしたらいいのか? 毎日、毎日考え悩み続けたが、私の力ではどうすることもできなかった。ようやく祖父母に話すと、悲しむかと思ったのに、心から喜んでくれた。もう祖母は寝たきり状態だったのに、私の幸せと未来を望んでくれ、私も決心した。