その原因は、主流をいく日本語聖書が翻訳底本としているWH本文が、真のギリシャ語原典を改変させてしまったものだからです。しかし『新欽定訳聖書』「ヨハネ第1の手紙」は正しく「天と地での三一性を証明して」います。

I Jo 5:7 For there are three that bear witness in heaven: the Father, the Word, and the Holy Spirit; and these three are one. 5:8 And there are three that bear witness on earth: the Spirit, the water, and the blood; and these three agree as one.

イエス・キリストとクリスチャンとは、この対句によって神様から地上での霊的同位体と認められるのです。

すなわち、クリスチャンになった根拠を「血の契約」に置かなければ、正しい教理解釈とその行為義認に至らず、霊的権威の顕現(サタンに勝利すること)になりません。ここでどんなに違う根拠を述べ立てても、一気通貫した「聖書全体の救霊定理解釈」には届きません。 

今、多く読まれている日本語聖書は、【神の御言葉の第一原則】であるこの7~8二節を正しく訳出していません。従って読む人の教理解釈が「三一性の定理」に至らず、霊的幼児に留まらざるを得ません。

奇跡を含んだ御言葉の約束を実現できない信仰解釈は、最後の審判で「なまぬるい信仰」と判定されるでしょう。「霊性が欠落したリベラル解釈」や、「聖書にも誤謬があると主張すること」などが、その代表です。

奇跡を排斥するのは、サタンの惑わしに操られていることです。だからその不信仰のゆえに「神様の口から吐き出される」と預言されているのです(「黙示録」3:14~21節)。

*「血の契約」を根拠とすれば、主イエスは当然に、日々の生活のすべての場面において、常にあなたと行動をともにしています。むしろあなたから離れられないというべきです。

だから次の主イエスの言葉は正しいのです。

・「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出さない」(「ヨハネ」6:37)。

・「わたしは、あなたを捨てて孤児にはしない」(「ヨハネ」14:18)。

・「その日には、わたしが父の中におり、あなたがわたしの中におり、わたしがあなたの中におることが、あなたにわかります」(「ヨハネ」14:20)。

【前回の記事を読む】「イエス・キリストに何かをしてもらうため」に祈り求めるものではないのだ!