第一章 不運
空は鈍(にび)色の厚い雲に覆われていたが、わたしはその向こうに広がっているはずの、青く澄んだ空を思い浮かべていた。
病院に入院してから二日が過ぎ、全身の痛みがかなり引いて、普通に歩けるようになったので、わたしは外に出てみることにした。
一階の待合室を通るとき、隣国フルグナとまた戦争になるのではないか、と話している男の人たちの声が聞こえた。
「政治体制や思想が全然ちがうんだから、どうにもならないよ……」
会計の所では年配の女性が、
「ちょっと、薬代が二千四百貫(かん)なんて、まちがいじゃないの? 先月は千七百貫だったのよ」
と言っていた。
わたしはゆっくり歩きながら正面玄関を出て、裏手にまわった。
わたしの腰の高さほどの煉瓦塀の向こうに、河川敷が広がっていた。はるか遠くには、王宮の小豆色の屋根が見える。
焼却炉のそばにはトラ猫がうずくまっていたが、わたしが近づいても無関心だった。
曇っているせいか、それほど暑くはなかった。天気予報では、これからしばらく曇りや雨の日が続き、その後涼しくなると言っていた。もうすぐ八月も終わる。
外壁にもたれて空を眺めていると、怪しげな男が近づいてきた。
鼻の下と顎の真ん中にみすぼらしい髭を生やし、黒縁の眼鏡をかけた男だった。十代ぐらいに見えるが、実際は三十を過ぎているのかもしれない。つくり笑いを浮かべていたが、半分眠ったような目は笑っていなくて、あまりいい印象は受けなかった。
男はわたしの左頬に貼られた絆創膏をちらっと見ながら、話しかけてきた。
「あのー、君、城屋(しろや)の工場で働いていた女工さんじゃないかな? 落雷事故にあって、入院してるんじゃない?」
わたしは無言で、じっと男の顔を見た。
「ああ、いや、僕はね、週刊新聞の記者なんだ。よかったら事故のこととか、工場のこととか、聞かせてもらえないかな」
そう言って、男は名刺を差し出した。そこには、蒐優社『週刊告壇(こくだん)』記者、西純一紀(にしずみかずき)、とあった。『告壇』という週刊新聞は読んだことはないが、名前は知っている。