恵介も忠司も一九四〇(昭和十五)年、ほぼ時を同じくして召集令状を受け入隊している。恵介は翌年怪我で帰還したが、忠司は、中国で三年半の兵役を送ったあと日本に戻り、瀬戸内海や佐賀県で、敗戦の一九四五(昭和二十)年八月まで海峡護衛にあたった。

戦時中の忠司のことも書いておきたい。

これはのちに私が直接聞いた話なのだが、忠司は中国で盲腸炎になって病院に運ばれた。しかし、負傷した兵たちの対応に追われて手術が遅れ、腸閉塞を併発し再手術を受けた。北京病院に移って、次は日本の病院に帰還される予定だった。

入院中の忠司と房子

内心嬉しかった忠司であったが、その前に兄の恵介が怪我で日本に戻っていることを知り、体が弱くて戦争に出なかった兄の敏三が実家にいるので、自分まで日本に帰されたら、父母がどんなに肩身が狭いだろうと思った。そこで、忠司は中国の病院に残る道を選んだのである。いつ死ぬかもわからない戦争の最中に、何と親思いの忠司なのだろう。

また忠司の話の中に、私(筆者)の実父である政二との関係も出てきた。政二が二度目の結婚をして開封にいたので、妻の房子が毎日のように食べ物や衣類を持って来て、入院中の忠司を見舞ってくれた。大変有難く嬉しかったと、当時の状況を思い浮かべていた。

忠司は、長男・寛一郎は頭が良かったが怖かったと言っているが、まあちゃんは優しい兄だったと昔を偲ぶように私に話してくれた。中国には、弟の八郎も兵役で行っていて、二人が再会したことがあり、酒を酌み交わした日もあったのだそうだ。

政二、恵介、忠司、八郎と、木下家の兄弟四人が戦地中国に行っているが、一人も戦死した者がいなかったのは、神仏を信じる祖父母の祈りが通じたのだろうか。戦争という厳しい状況下に置かれてもなお、親を想い兄弟を想う木下家の心が感じられるのである。

戦後復員した忠司は、一年近くを郷里浜松で過ごしていたが、すでに映画監督として活動を始めていた恵介が、大船撮影所の近くに借りていた部屋に移った。映画音楽をやりたいとは思っていたが、すぐにやれるとは思っていなかったので、恵介のために炊事や掃除などを手伝って過ごしていた。

デビュー作は、恵介の『わが恋せし乙女』である。ある日二人の下宿に、主題歌の詩『青春牧場』と『青春音頭』がサトウハチローから送られて来た。それを読んでみなさいと言って、恵介が置いて出かけた後、忠司は作曲してみた。

そして、帰って来た恵介に歌って聞かせると、「これならいける」と言って、撮影所と話をつけてくれた。こうして忠司の映画音楽生活が始まったのである。

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