「何かヒントはないですか?」

迫る私に、

「ごめんね、あたしもこの年だから物忘れが激しくて」

この場に春子さんのご主人さえいてくれたら…… 私は歯がゆい思いでたまりませんでした。結局その日の収穫はそこ止まりでした。しかし逆に言うと、わずか二日間で浜村館長が知りたいと熱望していた《聖月夜》の作者の正体にここまで近づくことができたとも言えるのです。

「どうしても思い出せない。ここまで出かかっているんだけど」

春子さんは自分の喉元を指さしながら悔しそうに、すまなそうに私に詫びました。

「何か思い出したら、すぐに連絡するから」

と言う彼女に携帯の電話番号とメールアドレスのメモを渡し、私は喫茶《ぱるる》を後にしたのです。なんだか疲れが出てきました。今日の成果について浜村さんに報告しておきたい気持ちももちろんありましたが、思いがけなく取っ掛かりのできた《聖月夜》の作者のことをもう少し自力で調べてみたいと思ったこともあり、資料館に立ち寄るのは思いとどまりました。

浜村さんに連絡するのは、せめてその作者の名前が判明してからにしよう……。

思えばこの月ノ石に赴任してから、仕事が多忙だったのはもちろんですが、短期間のうちに仕事以外のあれこれも東京では考えられなかったほどいろいろありました。都会の方が刺激的だと思っていたのは完全に間違いでした。東京での生活の方がある意味単調だったかもしれません。

平日はほとんど仕事と飲み会で費やし、土日もどちらかは出勤していましたし、たまの休みには昼近くまで寝ているか、たまった本を読むか、生活用品の買い出しに行く、その繰り返しでしたから。

それがこちらに来た途端、無人駅を降りる少女を見かけ、偶然立ち寄った喫茶店で幻のような美女に出会い(今となってはこの二点は私の錯覚かもしれませんが)、資料館館長の謎解きに付き合わされ…… とまるでジェットコースターのような日々です。

春子さんのお陰でかなりの情報が手に入ったとはいえ、今はこのあたりにしておこう、明日は大事な田沼さんの後任候補の面接があるのだから。奇しくも同人誌のタイトルと同じ、右側がわずかに欠け始めた十六夜いざよいの月をぼんやり眺めながら、私はそう自分に言い聞かせました。

【前回の記事を読む】《聖月夜》の作者の正体に近づき、思わず尋問のような口調になってしまった日