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遠い夢の向こうのママ 毒親の虐待と夫のDVを越えて

その後、お姉ちゃんが結婚して、家を出て行った。

結婚話が決まった頃、家の中で

「典子が結婚して出ていくのが寂しい」

と言って泣いているお母さんの声を聞いて、私も寂しくなった。

でも結婚したお姉ちゃんは幸せそうで、旦那さんも穏やかな人で、たまにお姉ちゃんの新居に泊まりに行ったりしていた。でもおばあちゃんが亡くなり、お姉ちゃんがいなくなってからというもの、家の中はますます殺伐として、私とお母さんの喧嘩はひどくなる一方だった。

ある時

「なんでそんなに怒るのよ!!」

と言うと、お母さんは

「あんたのためを思うから怒るんだよ!!」

と言ったが、嘘だと思った。

相変わらず、お母さんからはひどい憎しみしか感じてなかったからだ。親が子供を叱るのなんて、親の勝手な怒りの感情なのだとしか思えなかった。喧嘩がひどくなるというより、お母さんが私にあからさまに冷たくなっていた。

小学校の頃から山口家にもよく泊まりに行っていたが、小学校高学年の頃に、山口家が私の家のすぐ近くに引っ越してきたため、中学生になってからは、週末はほぼ山口家に入り浸るようになっていた。

鍵をしまっている場所も知っていたので、留守中でも山口家に入って山口家の人間が帰ってくるのを待っていたり、とにかく自分の家にいるのが嫌いで、週末は山口家に寝泊まりしていた。

平日、自分の家にいる時は、お母さんと大喧嘩を毎日繰り返しながらも、お母さんと接触するのは最低限に抑えるようにして、お姉ちゃんがいなくなってひとり部屋になった部屋で寝るようになったため、自分の部屋にこもって本ばかり読むか、英語の勉強をしていた。

そして小学生の頃から続けている英語の団体の活動に一層打ち込むようになり、そちらはとても楽しんでやっていた。また、学校の長い休みは以前と同じく、必ずずっと大阪で過ごしていた。大阪での日々は非日常のような生活でとても楽しかった。

ある時、大阪に着くとママが

「新田のお母さんはお土産になにが欲しいって言ってた?」

と聞いてきた。私は

「ブローチが欲しいと言ってたよ」

と言うと、ママはフンと鼻を鳴らし

「自分の立場をわかってるのかね」

とひとり言を言った。なんだか一瞬嫌な雰囲気になったが、意味もわからないからその時は黙っていた。

その後、典子姉ちゃんが結婚して間もなく、妊娠がわかり、赤ちゃんが生まれた。そうするとますますお母さんの私への当たりはひどくなり、それと同時に私に無関心になっていっているような気がした。

お母さんの考えていることは全くわからなかった。ただ、変わらないのは毎日の喧嘩、嫌味、悪夢の日々だった。