第一章 神々は伊勢を目指す

5.古風土記の逸文

スサノヲと猿田彦の身体的特徴

一方の猿田彦の様子は、その異形を『記紀』が詳しく伝え、『猿田彦神社誌』では、それらを解説的に述べているので引用する。

  サルタビコ神は座高が七尺、身長が七(ひろ)というように巨人性を叙し、さらに鼻の長さが七(あた)とある。

  この鼻は、推古時代に経典と共に伝来した「伎楽(ぎがく)」(古代チベット・インドの仮面劇で、西域から中国南朝に伝わり、日本に伝来した)に用いられた仮面からの連想であろう。

  (中略)次の「口・尻が赤い」とあるのは、サルタビコ神の「(さる)」からの連想であろうが、「眼は八咫鏡のようで赤いほおずきのように輝いている」は、〈異形〉の容貌描写である。

猿田彦がユダヤ系の神であることを前提にして、これらの異形を整理してみる。

・背が高く、鼻も高い(伎楽面に残るペルシャ人、西域人の顔を連想)

・口や尻など顔や身体全体が赤い、という印象である

・眼は円く大きく、赤いほおずき(赤酸醤(あかかがち)=赤いホオズキ)のように輝いている

全体の印象は、日に焼けた外国人といった風貌である。これが猿田彦神のお姿であった。

ただ「赤酸醤」という表現が、スサノヲとの共通点に繋がっている。彼の退治した「八俣大蛇(やまたのおろち)」が、「その目は赤かがちの如くして」なのである。大蛇も異形の神であり、目が赤く輝くのは、その神性表象の一つである。

伊勢津彦の足取り

スサノヲの子である伊勢津彦(五十猛命)は、その後はどのような運命を辿ったのか。

騎馬民族が渡来してきた証拠の一つである「馬冑(ばちゅう)」(軍馬の顔を保護する(かぶと))の辿った道は、それが出土した場所を繋ぎ合わせることによって判明する。先述の五十猛の行路を重ねると、伊勢までの進路が同じである。馬冑の壁画が残る高句麗からスタートすると、

  馬冑の道:高句麗→朝鮮半島南部→北九州→紀伊国→伊勢国→埼玉県行田市(将軍山古墳)

  五十猛の行路:  新羅→出雲(→北九州)→紀伊国→伊勢国→信濃国

このように伊勢と関東中央部は軍馬の繋がりがあり、当然ながら軍隊も同じ道を往来した。すなわち北九州から紀伊国、伊勢国さらに東山道を通って、信濃や関東へも行軍したのである。

また太平洋に沿って東海道を下った人たちや、もっと身軽に船で関東方面に逃れた伊勢津彦軍もあったであろう。伊勢津彦=五十猛を祭る神社は、関東から東北にかけて多くを数えることができるので、彼らの足取りが分かるというものだ。

伊勢志摩 きらり千選