あなたが信仰に入った時の救いの解釈は、「イエスの十字架による罪の赦しとよみがえり」でした。これは根源的に「世に対する招き」として、入信時には全く正しい教理です。

従ってあなたの信仰は、〔十字架の死による贖い〕を根拠として、天に向かって「憐れみを求める宗教」として始まり、イエス・キリストに「頼りすがる教理」と、その態度になります。これがクリスチャンの通常ですが、しかしそれは霊的初心者=第2の義です。

この霊的レベルでは、「マルコ」16:15~16節の主イエスの指示(御言葉に伴うしるしとして奇跡を顕現させること)を、実現するのは極めて困難です。

<「マルコ」16:17「そして、信じる人々にはこれらのしるしが伴う。すなわち、 わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい異言で話すようになり、16:18 彼らは蛇を退治し、たとい毒を飲んでも決して害は及ばず、また、彼らが病人に手を置けば病人は癒される」16:19 そのように、主イエスは彼らに語られたあと、天に上げられて神の右の座に着かれた。>

これらの主イエスの指示は、聖霊の働きの顕現です。しかし「信じること」を頼りすがる信仰態度としているなら、まだ「聖霊のバプテスマ」を授かっていない霊的幼児といえます。

聖霊を授かった証拠として、異言が口から出ますが、奇跡と呼ばれる働きなどを否定している教会では、自ら聖霊を拒否していることになります。

それゆえにあなたの願望が叶えられること(祈りと結果)について、《絶対的確信が得られない現実》に直面します。そしてそれは当然に、御言葉の約束の成就に疑いを生じさせます。

なぜなら「十字架による罪の赦し」を信じるだけでは、神の子としての知識がなく、《聖霊の働きを実現する「神の子とされた霊的立場」に至っていない》からであり、その「霊の関係性が確立していること」を、絶対法則にできていないからです。

*しかし聖書は、「信じる者には聖霊が授けられる」としていて、これこそ「霊的関係性の実現」にほかなりませんが、それなのにその証拠となるものが見つかりません。

 聖霊を受けた証拠としての「異言」は、確かに霊の交わりですが、その異言自体は結果として表れるものであって、「神様への信仰の絶対的根拠」ではないからです。

 従って、うやむやとした状態の教理解釈に留まり続ける結果になります。

*それでは何が、あなたの霊における「信仰の根拠=神様の保証」なのでしょうか?

そしてそれを手に入れて〔あなたへの主イエスの臨在〕を実感するには、どうすればよいのでしょうか?

聖書の主イエスの言葉は、あなたとの個人的な関係性を保証しています。それなら《あなた個人の主イエス》は、どこにいてその約束を実行してくれるのでしょうか?

天からの見守り(リモート)で次の約束が実現できると信じますか?

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