第一章 発端

「あら、昨日のお客さんじゃない?」

私がなおも物思いに耽っていた時、背後から元気な声で私に声をかけてきた者がいました。

「あたしよ、《ぱるる》の春子」

見ると、昨日資料館を訪れる前に立ち寄った月待池南交差点の喫茶店《ぱるる》の春子さんです。足元には例によってチワワのモカと、ヨークシャーテリアのブラックもいます。深い考えに埋没していた私は、キャンキャンと威勢よく鳴く二匹の犬の声にも気づかなかったのでしょう。犬たちは私を覚えていたのか、やがて吠えるのをやめ、千切れんばかりにしっぽを振りながら私に飛びついてきました。

「こんなところで何してらっしゃるの?」

春子さんは晴れやかに笑いながら聞いてきました。

「ちょっと朝の散歩です、海風が気持ちいいですね」

「でしょう? この道はあたしもお気に入り……というか、この子たちの散歩コースなの。いつも店を開ける前に二人を外に出さないと大変なことになるからね。店が始まると夜まで構ってやれないから」

春子さんはじゃれる二匹を軽々と抱き上げて、

「このあと何か予定あり? よかったらうちでモーニングでもどう?」

明日の月曜日は所長に頼まれた田沼さんの後任を決める採用面接が控えています。久しぶりの何もない日曜日の午前中くらい、この陽気で気のいい女性と過ごすのも悪くないかもしれない。私は二つ返事で春子さんの申し出を受けることにしました。

「じゃあ、あたしは先に店に戻っているね。お客さんはあとからゆっくり来て」

「僕の名前は佐伯ですよ、佐伯(さえき)俊夫(としお)です」

早くも二匹を連れて遊歩道を走って行こうとする春子さんに私はそう言いました。私の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、春子さんはもう視界から遠ざかっています。明るく元気に見える彼女も、旦那さんを亡くして本当は寂しいのかもしれない、話し相手が欲しいのだ。

《聖月夜》の詩の謎に迫るようなヒントは見つかりませんでしたが、その代わり春子さんに会えた。松林を歩いてなまった体が活性化したのでしょうか。資料館の浜村館長も《ぱるる》の春子さんも、一年という期限つきの私の月ノ石生活を彩ってくれる存在になりそうだと私は高揚した気持ちで考えていました。