喫茶店《ぱるる》に到着したのは三十分ほど経ってからです。
「あら、早かったね、佐伯さん」
愛想よく迎えてくれた春子さんに、
「あれ、僕の名前、覚えてくれたのですね」
嬉しい思いでそう言うと、
「いい男の名前はすぐ覚えるのよ」
と春子さんはウインクし、
「モーニングはコーヒーか紅茶にトーストとポテトサラダが付くだけだけど、誘ったのはあたしだから特別にオムレツも付けちゃう」
「すいません」
軽く頭を下げる私に構わずいそいそとキッチンで準備をする春子さんに、私は家庭のぬくもりを感じました。幼い頃に母を亡くし、男手ひとつで私を育て大学まで出してくれた父までも大同石材に就職した次の年に亡くした私には、家族そろって食卓を囲んだり、家族旅行を楽しんだりといった一般家庭の味は正直わかりませんでした。そういう幸せは自分には無縁だと思っていたのです。
自分なりに結婚や家庭生活を想像してみることはありました。が、見たことも経験したこともない幸せは、どうしてもぼんやりとした輪郭でしか私には描けなかった。加瀬久美子にもうひとつ積極的になれなかったのも、そのあたりが起因していたのかもしれません。
「いい匂いだな」
湯気の立つキッチンから流れてくる香ばしい匂いが私の空腹を刺激してきました。
「オムレツにチーズとベーコンを入れたからね。佐伯さん、もうちょっと太った方がいい」
「一人だとどうしても食事が適当になっちゃって」
「佐伯さん、独り者なの? まったく世の中の女性はいったい何をしているのかしらねぇ」
はい、おまちどうさま、と手際よく朝食を作ってくれた春子さんに、
「いただきます。これはうまそうだなあ」
と礼を言い、私はモーニングを食べ始めました。カリっと焼けて中はふっくらとしたバターの浸みた厚切り食パンといい、ほくほくしたジャガイモのサラダといい、ナイフを入れるととろけたチーズが滲み出るオムレツの柔らかさといい、一度もこんな朝食を食べたことのなかった私は思わず目頭が熱くなりました。
こんなところを見られたら愛情に飢えていた自分を見透かされてしまうようで、私は涙が滲みそうな顔を春子さんから背けました。その時、壁際のマガジンラックに無造作に入れてある雑誌に紛れて、ある物が目に入ったのです。