【前回の記事を読む】たった一枚の写真が私の運命を変えた「インドに行ってマザーの手伝いがしたい、看護師になりたい!」

第三章 ぽんこつ放浪記

2.母の呪文からの解放

大学でボランティア活動から学生運動へ、そして家出

歌が好きだったので、「うたごえ」の歌を先頭で歌った。「寝たきり老人をなくす」から「平等な社会を」「変革を」とエスカレートした。そうしてまた恋に落ちた。共産党事務所で出会ったKさん、まばゆい光を放っていた。一目ぼれ。恋心を打ち明けられず事務所に行けば彼に会えると思った私は躊躇なく学生党員になった。

共産党員として色々な活動もした(結局離党したが)。だが、そんな私を両親は許さなかった。

帰宅した私に親は「お前はアカか」と言い放った。家を出ていけと言われた。

「アカ」っていつの時代だ? 小林多喜二か? 小樽の代表作家じゃないか。そういえば、つい最近、『蟹工船』(小林多喜二、文芸誌「戦旗」、1929年)が、ブーム再来していたっけ。理不尽だ。信念は曲げられない。家出を決行した。

事情を理解してくれた友人宅にバック一つで転がり込んだ。その彼女は党員ではなかったが、彼女のご両親が私の事情を理解し、なんと家出を支援してくれた。一か月間友人宅に居候。友人のご両親の手前もあり両親は折れた。私を解放してくれた。実習も近かったから、いずれは家から出なければならなかったのもある。幸い、やはり遠くから通学していた友人と共同生活を始めることで、親元を離れることが許可された。

3.恋愛放浪時代

親から解放された自由を満喫。ボランティア、学生運動、そして恋愛の日々。大学時代は人生最大のモテ期だった。毎週違う男の子とデートした。あんなに高校生の時に悩んだ男女の「一線」もひと夏の経験で簡単に越えてしまった。

夜はススキノ通い。当時ディスコと呼ばれた場(今はクラブか)の店員でかつてディスコキングだった(なんじゃ、それ?)という男にはまった。この恋は、完全お互い遊びだったが、結果、火遊びになってしまった。遊びで妊娠。全身の血が引くのを感じた。気が動転した。

産むなんてありえない。しかも妊娠が判った時はとっくに別れていて連絡の取りようもなかった。人工妊娠中絶しか選択できなかった。誰にも内緒でこっそり中絶。ただ悲しかった、つらかった。共同生活をしていた彼女だけが手術後ずっと泣きながら手を握っていてくれた。つらい思いをさせてごめんね。でも、その罰はやはり下された。

戴帽式の日に腰椎手術・長期入院

私は、中絶した後、気を紛らわすように病院の看護助手のアルバイトをした。働いていると気がまぎれた。患者さんの笑顔が嬉しかった。誰かの役に立てている実感がわいた。けれど、看護技術も形しかできていない実習前の学生だ。車椅子を使用するリハビリ患者の移動を、一日に何度も手伝って腰を痛めた。

実は、小学五年から腰痛持ちでコルセット着用の日々だった。腰痛はいつものことだったから気にしていなかった。しかし、突然、足がしびれて動けなくなった。腰部椎間板ヘルニア。神経麻痺が起きて完全に歩けなくなっていた。

実習どころではなく入院安静。そして、五月十二日、ナイチンゲール生誕祭、看護帽をいただくはずだった戴帽式のその日、私は腰の手術を受けた。これで看護師の道は断たれたと思った。これは神様の罰だ、きっと。