私には浜村さんの言おうとしていることがだんだん見えてくる気がしました。
「佐伯さんはもちろん松尾芭蕉はご存じですよね?」
「はい、日本一と言ってもいい著名な俳人ですね」
「ええ、誰もが一度は芭蕉の句を聞いたことがある。有名な句のいくつかを暗唱している人もいるでしょう」
「私もいくつか言えますよ」
「その芭蕉が幕府の隠密だったという説は今や一般的に知られています。そして芭蕉の詠んだ俳句がすべて何らかの暗号か何かの合い言葉、または秘密の報告や指令であったのではという解釈もあります」
「では、この詩にもそれに似た意味があると。何かの暗号か、誰かに何かを伝えようとするメッセージではないかということですか?」
「あくまでも私の仮説ですし、何より作者がわからないことには先には進めないのですが」
浜村さんの話を聞くうちに、この詩の作者だけでも知りたい、そしていったいどういうつもりでこの詩を書いたのか、この詩にどんな意味があるのか、それを調べてみたいという強い欲求が私を支配してきました。たとえ、何者でもない人物が何の意図もなく気まぐれにただ書きなぐっただけの意味のない詩だったとしても、それはそれで構わなかった。とにかく真相を知りたかったのです。
「三十三年前ですよね」
二人の間に流れる沈黙を破るように私は言いました。
「当時、《十六夜の会》で活動していた人を探せば、手掛かりがつかめるのではないですか?」
「それは私も考えました。三十三年前、私は四十七歳で、役場の環境整備課の課長をしていました。その関係で、例の月待池の名称変更の経緯も知っていたのですが。で、当時の同僚や知り合いに十六夜の会のメンバーがいなかったか調べてみたのです。作者名からネット検索もしました。ですが、何人かはすでに亡くなっていたり、転居していたり、結婚して名前が変わっていたり、また作者は見つかっても、編集の中枢には携わっていなかったため、投稿はしても他の参加者のことは知らないという人ばかりで、有力な手掛かりは得られなかったのです」
浜村さんの落胆が自分のことのように感じられました。しかしハードルが高いとわかると、なおさらチャレンジしたいと思うのが人間です。
「わかりました。乗りかけた船です。今日お会いしたのも、浜村さんの家に住むことになったのも何かのご縁でしょう。《聖月夜》の秘密を解くお手伝いをぜひ私にさせてください」
館長としての仕事に戻るという浜村さんと固い握手を交わし、二時間ほどで私は月ノ石資料館をあとにしました。浜村さんに聞いた話のインパクトが強すぎたせいでしょうか、家に戻った頃には喫茶《ぱるる》で見かけた女性のことはすっかり忘れていました。