ぼくは人垣に背を向けた。すると耳の奥にまた死んだ妹の声が戻ってきた。

戦争が終わったのが八月だった。今が十一月だ。季節は夏が秋に変わっていたが、たった三カ月しか経っていないのだ。それがぼくには噓みたいだった。

ぼくの記憶ではきのうのことのようなのに、おとな達を見ているとあれは遠い昔の出来事だったみたいだ。あの防空頭巾の下に血走った目を光らせていた人々がどうしてみんな、こんなに優しい平和な人達に変わってしまったのか。

ほんの数カ月前には座布団みたいな模擬爆弾を小学四年生のぼく達の胸にしばりつけ、戦車の下に飛び込む練習を校庭でさせた先生達が、今日は男の子にまでオルガンに合わせて「白鳥の湖」を踊らせる。

男子も家庭科を勉強しましょうと呼びかけて白いエプロンを掛けてジャガイモをゆでさせる。ぼくには周囲の世界が夢のように希薄だった。

でも確実に戦争は終わっていた。

ぼくの住んでいるP市は市街部を手ひどく爆撃で灰にされていたが、郊外は比較的無事だった。そしてぼくの家は中心部からはずれた小高い丘陵にあったから戦災はまぬがれていた。当時としては近代的なベランダのついた洋風の造りのその家は戦争の始まる前のままで、そこだけ時が避けて通り過ぎたようにも見えたが、ベランダに出て街を見渡すと、丘の下に広がるP市は焼けトタンに覆われた廃墟だった。

ゆるい登り坂になっている道をぼくはいつものように小走りに家へと駆けた。戦争が終わった日から防空頭巾も救急袋も持たずに通学していることがかえって変な気持ちだった。ランドセルだけの背中が忘れ物をしたように軽かった。

エンジンの音が近づいてジープがぼくを追い越した。屋根のないジープには溢れるように身体の大きいアメリカ人の他に日本人らしい男が一人乗っていた。木炭自動車に馴染んだ鼻に、ガソリンの匂いを甘く残してジープは坂の上を曲がって見えなくなった。

ガソリンで走る自動車があることさえ、ぼく達の忘れ始めていることだった。タクシーもバスもトラックも、日本の殆どの自動車は、炭焼きガマを背負って走っていた。燃料は炭でありマキであった。

ぼくはふと足を止めた。十カ月前まで、学校の帰りにぼくはこの道を通っていなかった。本当のことを言うと、この道は少し遠いのだ。もっと近い道がある。でも、あれからぼくはその道を決して通らない。いつも妹と通学していたその道。麦畑の中を抜けるその道。

坂道でぼくを追い越したジープは、ぼくの家に来たのだった。ぼくが玄関の脇に少し植えておいたホウレン草の中に車輪を乗り入れて、夕陽を浴びてジープは止まっていた。

 

【前回の記事を読む】戦時下の小学生時代「全てが平和でばかばかしいくらいのどかだった」