3.ぽんこつ助産師、なぜいま「寄り添う」を考えたか

・「寄り添うってなに?」次男からの質問

コロナ禍のある時、次男とNHKのTV番組『ズームバック×オチアイ』を見た。毎回、欠かさず録画までしている。テーマは「生死論」だった。子どもたちと生と死、宗教、アートについて話がはずんだ。

次男は毎日絵を描きながら「誰かのために寄り添える絵が描きたい」と言う。

「ずっと死にたくて何度も死ぬことを考えてきたから」、だから「この絵を見たらそういう人が励まされる、そんな絵が描きたいんだ」と。

続けて、「ねえ、ところで寄り添うってなに?」と、問いかけてきた。

改めて問われると「難しいね……」と言いかけて、十五歳になったばかりの子が何度も死ぬことを考えてきたという現実、誰よりもそれを知る当事者の母親だけに言葉を失った。同時に、子どもの顔を見て、

「そんなことを子どもに言わせる親の顔が見たいわね!」と笑ってしまった。

どんなつらい目に遭わされたらそんなことになる? どんなつらい思いをさせたのじゃ? 

と思った。でも、この子は本当にそう思ったんだ。不登校の日々、孤独と向き合って、閉塞した空間の中で、出産があれば何時に帰って来られるかわからない母の帰りを、雨の日も風の日も、ただただ母の帰りを待ちながら、本当にいつもこの子は「死」と対話してきたのだ。

それが、今は、そこに寄り添うものとなりたいと思っている。私は助産師として

「子育ては子どもに寄り添うこと」

と偉そうに語ってきた。でも、肝心な自分の子どもの心に寄り添えていなかったことに気づき、正直、その気づきに驚いた。改めて「寄り添う」とは何か考えた末、

「まず子どもと同じことをしよう」

と思った。彼が真っ白なキャンバスに一筆一筆入れるよう、私も心の中にあることを一字一字と綴ることから始めてみよう。幸い、今は時間がある。これは、きっと神様が与えてくださったチャンス。ここからが、本当に母の「寄り添う」チャレンジの始まり。

「寄り添う」を始める=この本を書くことだった。今こそ、次男に寄り添い見守る大切な時。再び次男を置き去りに仕事に出かけることはできない。私ができることは、ただ子どもたちのために「いま生きること」。そう思いながらも、夜になると不安に襲われ、睡眠薬がなければ眠れない。けれど、自分にも、これからでも、何かできることがあるはず。