人間のいのち

いのちとは何ぞや普段わたしたちは、「いのち」という言葉を何気なく使っています。「いのち懸け」とか「いのちの恩人」とか「いのちの洗濯」等々と、日常会話の中でごく自然にいのちという言葉を使っています。それなのに、改めて「いのちとは何ぞや」と自問してみると、なかなかうまく答えが出てきません。

漠然としたイメージは湧いてきても、具体的に言葉で言い表すことができないのです。いのちという言葉を広辞苑で調べてみると「生物の生きてゆく原動力」と出てきます。しかしこれでは、いのちの意味が具体的にイメージできません。

明鏡国語辞典で調べてみると、「生物が生きている限り持ち続け、死とともに消滅するもの」と出てきます。これだと、なるほどと思えないでもないのですが、やはりこれでもまだはっきりとしたイメージが湧いてきません。

そもそも「いのち」という言葉の意味するところは、わたしたちの五感で直接捉えることのできない抽象的概念でしょうから、具体的なイメージがつかめないのは当然なのかもしれません。

ところで、「いのち」という言葉を見聞きしたとき、わたしたちの脳裏に直感的に浮かんでくるのは「死」というイメージではないでしょうか。いのちという言葉を見聞きすると、わたしたちはすぐに、救急車とか新聞紙上の死亡広告とか、棺の中の死人の顔などを連想してしまいます。

これは常日頃わたしたちが、生と死をセットにして「生き死にのいのち」だけでいのちを捉えているからではないでしょうか。

広辞苑に見る「生物の生きていく原動力」とか、明鏡国語辞典に見る「生きている限り持ち続け、死とともに消滅するもの」という解釈は、すべての生きもののいのちに通底する最も根源的ないのちの定義であり、いわゆる生死のいのち(生理的いのち)に限定した解釈だと考えられます。このレベルだけでいのちを考えていくと、野の生きものたちのいのちも人間のいのちも、大自然から授かった(大自然の条理によって生まれた)平等ないのちということになります。