芸術庇護者 Emerald Cunard
エメラルド・キュナード 1872.8.3 サンフランシスコ─1948.7.10 ロンドン
イギリス社交界の宝石と謳われたレディー・キュナードは、アイルランド系アメリカ人の父ジェームス・バークと、ゴールドラッシュで移住してきたフランス人ハーフの母の間にサンフランシスコで生まれ、モーと名付けられました。
ニューヨークに移り住んだモーは、ワーグナーの曲に感激し音楽に情熱を傾けます。
母親とのヨーロッパ旅行でモンテロトンドの皇太子アンドレ・ポニャトフスキはじめ幾人かの有名人たちとの恋愛遍歴を経て、1895年4月、モーはクイーンメリーやクイーンエリザベス号を所有することになる、イギリスのフラッグキャリアのキュナード汽船創立者の孫で、21歳年上のバッチェ・キュナードと結婚しレディーの称号を受けますが、レスターシャーのお城で狩りに情熱を燃やす夫とは別に、文化人たちを招いて社交を広げます。
そしてこのサークルの中で、1894年のヨーロッパ旅行の際に知り合ったかつての20歳年上の恋人で小説家のジョージ・ムーアと再会し、ムーアはモーからインスピレーションを受け、作品中に何度もモーと思われる人物を描写します。
1896年3月10日、娘のナンシーを生みますが、1911年娘とともに城と夫から離れてロンドンで生活を始め、承認をうけてキュナード卿と離別します。
この頃から彼女はその美貌からイギリス社交界で「エメラルド・キュナード」と呼ばれ、現在の製薬会社グラクソ・スミスクラインの前身ビーチャム製薬の御曹司で指揮者のトーマス・ビーチャムと恋に落ち公然のカップルとなります。
第一次世界大戦後の「狂騒の時代」、モーは社交界のステータスとしてマリーに肖像画を依頼します。マリーは乗馬の名手とも謳われていたモーが騎乗する美しい大作の肖像画を完成させますが、モーは自分が乗っている「生き物」が気に入りませんでした。
その話を聞いたマリーは、「それならこの馬を駱駝に描き変える」と息巻いたため、社交界でのスキャンダルを恐れたモーはパリまでやってきてマリーをなだめ、邸宅の屏風画まで注文してロンドンに戻ります。この曰く付きの絵はマリーの忠実なナイト、アルマン・ローヴェンガールに預けられ、その後はアンドレ・グルー家の食堂に飾られていました。
1930年代モーは「王冠をかけた恋」と言われ、ウインザー公爵エドワードと結婚したウォリス・シンプソン夫人と懇意になり、娘ナンシーはシュルレアリストのミューズと呼ばれ社交界に君臨します。
しかし第二次世界大戦が始まると、モーをはじめ貴族の婦人たちにより豪奢な祝祭の日々を送っていたイギリス社交界も終焉を迎え、モーもトーマス・ビーチャムと共にニューヨークに移りますが、ビーチャムは若いピアニスト、ベティ・ハンビーと結婚してしまいます。
単身でロンドンに戻ったモーは、1947年ロンドンのギンペル・フィス画廊でのマリーの展覧会には、自分が所有するマリーの作品を惜しみなく貸し出しますが、翌年、1948年7月10日、住んでいたロンドンのドーチェスターホテルの一室で一人寂しくその生涯を閉じます。