第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本人は神の国から遠いのか

人が何かについて真剣に考え、学び、一つの決断をしようとする時、その対象について初めから見下げた気持ちや軽蔑が少しでも混じっていれば、本気で学ぶことは困難です。キリスト教に対しても同様です。

所詮は紅毛碧眼の異邦人たちがユダヤ人の聖書を勝手に解釈し、ドグマ化した「宗教」ではないかと初めに気づいてしまったら、お仕舞いです。何かの都合でその学びが必要だとしても、例えば単位取得のためだとしても、それだけの理由では心底学ぼうとする気は起きないものです。

だからこそ、学ぼうとする者はそれが普遍的なものであると「思う」ことが必要です。歴史的事実であると「知る」ことも必要です。それが学習者に課せられる条件であり、謙遜というものかもしれません。

できれば「思う」をより浄化させ、「信じる」というレベルにまで引き上げることが可能であれば、それに越したことはありません。対象の素晴らしさにより、それへの反動によって励起される顕著な茫然自失性の別名を日本人の漢意と呼ぶのであれば、日本人こそ「神の国に近い」とは言えないまでも、日本人ほど「神の国から遠くない」国民は、他にはないのかもしれません。

だからこそ神を知らない日本人は、神の国の「福音」と地上の「キリスト教」との違いは薄々感づいていたのです。我々は一体誰に福音を伝えようとしていたのか、もう少し謙虚になる必要がありそうです。

何しろ彼らはサトリをも倒すことができる人々の子孫だからです。それが今やキリスト教宣教師の墓場と揶揄され、日本人ほど「神の国から遠い」者たちはないという西洋キリスト教側の定説を頭から信じ、頓珍漢な法話を垂れていたのはなのかと糺したいのです。

福音を信じた時の私もそうですが、全てのクリスチャンはキリスト教こそが唯一「普遍的」宗教であると、思ったはずです。その時の「福音」理解と、「キリスト教」信仰は私の中でも同格だったのです。もしもどこかに真の神がおられるというのであれば、聖書の神の他には如何なる神も考えつきませんでした。

その神が「人の子」として、この世に来られたナザレのイエスであるという聖書の言葉以外には、どんな思索も不可能であったからです。「おいでになるはずの方はこの御方をおいて他にはない、別の方を待つべきではない」と悟るのはさほど難儀なことではありませんでした。

理性は停止し信仰というものが起動し始めたのかもしれませんが、私には分かりません。福音の素晴らしさの中で、私もすっかり我を忘れていた時期がありました。

楽しい教会通いも「光陰矢の如し」でした。竜宮城での夢のようなひと時を過ごした浦島太郎もかくやと思ったものです。地上にパラダイスを夢見る齢ではありませんでしたが、私もある時、ふと「我に返った」のです(ルカ15:17)。

自分の中に眠っていた意識が再稼働したのかもしれません。神礼拝という場の中で上意下達に聞かされる言葉と、一人自分だけで読む時の聖書の言葉との間に違和感を覚え始めたのです。

当初は自分の側の理解不足ということで、自分を納得させようと努めました。また無数に考えられるであろう解釈の問題として、これ以上の深入りはしないようにとも考えました。牧師や宣教師とはいえ同じ罪人同士ではないかという変な連帯感の下に、自己主張や粗探し、反論はやめようとも思いました。

そんな中で、私は聖書の何をどういう理由で信じていたのか、その言葉がどこにあってどのような解釈を経て今の考えになったのか、自分の「福音理解」というものを、少しばかり点検してみなくてはと思い始めたのです。それというのも、どうやら信じなくてもいいものまで信じさせられてきたのではないかという、妙な気分になっていたからです。