その時でした。カウンターに隠れて死角になっていた場所から、一人の若い女性が姿を現しました。薄いグレーのノースリーブのワンピースを身に付け、艶のある長いまっすぐな黒髪を垂らした目の覚めるような美女です。年は二十代半ばから後半といったところでしょうか。すらりと背が高く、膝まであるワンピースの裾から伸びる脚線はすっきりと引き締まっています。
女性は支払いを済ませて化粧室にでも行っていたのか、足早に私のそばを通り過ぎ、あっという間に店の外へと出ていきました。この町にもあんな美人がいたのかと私はその意外性に驚くばかりでした。
「どうもお待たせしちゃって。モカがうるさいからおやつをあげていたの。お客さんを一人きりで放りっぱなしにしてホントごめんね」
春子さんが二階から降りて来ました。
「今一人女の人が出ていきましたよ。客は私だけじゃなかったのですね」
お客さんを一人だけにして……と言った春子さんの言葉に、妙な引っ掛かりを感じたのです。すると彼女は不思議そうな顔をして、
「朝からお客さんはお宅さん一人だけですよ」
「え、でもさっき確かに若い女性が奥から出てきて」
「ああ、お客さん、タヌキにでも遭ったんでしょ。ここに来たばかりの人からたまにそういう話を聞くから」
春子さんはこともなげにそう言いました。私もなぜかそれ以上深堀りをする気持ちはなく、
「最近ちょっと疲れているからかなぁ」
と言葉を濁して話を終えました。駅で見た少女といい、喫茶店での幻の女性といい、これは田沼さんや春子さんが言うとおり、本当にキツネかタヌキに憑つかれてしまったのかもしれないと私は徐々に思うようになっていました。意欲を持って新しい現場で頑張っていくつもりでしたが、自分で思う以上に私は気負っていたのかもしれません。