二人は働き尽くめの貧しい生活の中で、戸籍には記されていないが生まれた女の子を疫痢で亡くし、次の男の子を家の中の事故で亡くしている。
その後二人は名古屋を離れ、親戚の伝手で浜松の江間殿小路(伝馬町)に移った。そこで親戚から小さな店を譲り受け、屋号を「尾張屋」とした。貧しい家にも豊かな家にも重宝な食べ物だから、誰でも喜んでくれるという思いで、漬物や佃煮を作って売ったのである。
やがて生まれた長男・寛一郎が二歳の頃、周吉は寛一郎を連れて大八車を引き商いに出たが、途中でアメが欲しいと泣かれても、一銭のお金も持っていなかったために買ってやることができなかった。あんなに辛い思いをしたことはなかったと、のちに子供たちに話している。
周吉は、品物を山のように積んだ重たい大八車を引いて、木賃宿を泊まり歩き、行く先々で商いをした。売れ残りを出すまいと、ある日天竜川を越えて歩き通し、何と信州の諏訪まで行ったこともあった。
寛一郎の後に、政二、敏三、正吉(恵介)、忠司、八郎と男ばかり六人が生まれた。そのあと作代、芳子と女子も二人生まれている。貧しい生活の中で、二人の子を亡くした辛い過去の思い出があった二人は、一生懸命働いて「尾張屋」を大きくしながら、八人の子をそれぞれ立派に育てている。
自分のような苦労はさせたくない周吉は、子供の願うことならどんなことでも叶えてやりたいという思いが強く、たまもそんな夫と同じ考えだった。
寛一郎から芳子まで実に二十二歳も離れて生まれた八人の子供たちは、絶対に立派な人間になると信じて、どの子にも愛情を注いで大切に育てたのである。