事故から五日目。

「正典、正典、わかる?」

俺は母の声に応えるように、意識がないながらも、目をあけようとして、涙を流したらしい。その二日後、医師は、俺の脳のCT画像を母に見せた。そこには、大きな白い影が映し出されていたという。

「かなり後遺症が残るでしょう」

母は事故後からずっと、どんな姿になっても生きてほしいと願っていたが、後遺症が残ることを主治医に告げられ落ち込んだそうだ。事故から三週間経過……。一般病棟に移った俺は、二十四歳の誕生日を入院中のベッドの上で迎えた。脳挫傷の影響で朦朧としていた俺の代わりに母が脳神経外科の医師から話を聞いた。

「脳挫傷でCTに白い影がありますね。CTでは小さくなっていますが、完全には元に戻らないかもしれません。性格が変わったり、物忘れがあったりするかもしれません。とにかく長い目で見ていかないといけないでしょう」

俺の二十四回目の誕生日、もう一つ大事な話が医師からあった。

「右足の骨折したところですが……、その傷口が感染症にかかっている恐れがあります。来週か再来週あたり手術になるかもしれません」

このとき俺の右足は、家族が思っている以上に酷い状態だった。桜の花びら舞う頃、三十八度を超える熱が数日間続いた俺の看病をしていた母は、医師から呼び出された。

「右足の骨折した箇所がかなり悪化しています。壊え疽そが進んでいます。このまま放っておくと菌が全身に回り、生命の危険があります。もしかすると右足を切断しなければならないかもしれません」

生きるか死ぬかの次は、生命と引き換えに足を切断すると言われて、母は、俺に見せないように隠れて泣いたという。

その日の夕方……。

「検査結果が出ました。右足の壊疽の原因は、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)という菌でした」

重症化すると、敗血症、髄膜炎、心内膜炎、骨髄炎などに陥って死亡することも少なくないという非常に怖い感染症だった。

「右足を残せば、生命を落とすことになるかもしれません。右足を切断する方法しかありません」

意識が朦朧としていた俺には、いまいちこの言葉がピンとこなかった。母から、ゆっくり何度も聞かされて生命と右足の究極の選択を迫られていることがわかった。俺は、意識がはっきりしないながらも生命を選択したのだった。母はこの日のことを日記に書いていた。

「代われるものなら母さんの足をあげたい。だけど……、右足切断に踏み切るしかない。その方法しか生命を守る方法がない。二人で涙が枯れるまで泣いた。その後、正典は、右足を切断することを決心した。自ら先生に足を切断することをお願いすると言った。生きて、生きて、これからの人生を生き抜いてほしい」