木戸が曖昧な音を出して開いた。台所から、りょうが顔を出した。
「あら、新村さんは誘わなかったんですか」
「ああ」
「緑茶ブレンドしてみたから、飲んで頂こうと思ったのに。あなたよりましな答えを返してくれそうですから」と言った後、何か頼まれましたかと聞いた。
「また、勘か」
「あなたは顔に出るから。すぐ分かります」
「講師を頼まれた」
「いいんじゃないですか。もう歳なんですから、若い方を育てるお手伝いしてもいいと思いますよ」
「しかし、人と絡むのは気が重いな」
「何事も修業よ。くれぐれも短気を出さないで」と、りょうが言って、緑茶を渡した。気づかぬうちに喉が渇いていたらしく、一気に飲んだ。
「いかがです」
「うん」
「聞いた私が間違いでした」
白いエプロンで手を拭きながら、りょうが笑った。身体に絡みついていた居酒屋の匂いはもう消えていた。
蝉の寝言
逗子は昼と夜がはっきりしているが、表参道の夜は昼の延長。と言うより夜のほうがメインらしい。何しろ人が多い。若者が圧倒的だ。いっぱしに人混みの中の孤独が好きだった時期もあった気もするが、歳とったせいか、今は違和感しかない。行き過ぎた若者が耳に飾りをつけていた。
新村の教室は地下鉄の出口から歩いて二、三分の所だ。そう言えば、去年あったサリン事件は、この地下鉄の沿線だった。
ビルは通りから脇に入った道にある古い四階建てで、新村の教室は三階だ。一階は喫茶店になっている。建物の古さを上手く生かしたレトロな雰囲気で、何組か客がいた。運動のつもりで脇のエレベーターには乗らず、奥の階段を三階まで上がった。毎日泳いでいるせいか、それほど息が上がらない。まだまだ自分は生きるだろうと思った。今日も生きています、だ。