「実家には兄さんの奥さんと子どもがいるのよ。どのイエにもね。だから戻れない。出戻りはイエの恥って時代が長かったの」
可哀そうな時代だったんだ、とナオミは母親の言葉を思い出しながらバス停まで歩いた。自分を納得させようとした。同じ血が通う祖母や母親の冷酷さが生まれつきとは思いたくなかった。それぞれの感情なんか、地域社会の不和を招くだけの災いだったのかも。個人の愛情なんか、地域の伝統にひび割れを入れるワガママ。迷惑。愛が世界を動かす原動力なんだけどなぁ。
逃げ出したママはパンドラだったのかも。アタシはね、おじいちゃん、言ってたみたいな人間に成長するよ。天国で見守ってね。人の振り見て我が振り直せ、だよね。退職し、寮を出て県営団地に落ち着いた。出産までに手あたり次第、面接で
「赤ん坊をおぶって仕事をしていいですか」
と聞いてみた。どこでも返事は同じだった。
「事情は理解できるけどねぇ。子ども連れだと取引先に無責任だと思われちゃうからさ」
木枯らしが吹く季節になった。カンツバキが濃いピンクのつぼみをあちこちで思い切り膨らませている。膨らんだおなかの中で子どもが動く。これは脚だ、きっと。冷たい空気の中で赤ちゃんが励ましてくれている気がしてきた。
お産の後、貯めていたお金は二カ月で底をついた。乳児の預け先を見つけられないまま短時間、清掃の仕事に行った。毎日、走れない体でも走る気持ちで帰った。ある日、赤ちゃんは電気コードにぐるぐる巻きになっていた。心臓が凍りつく。いつの間にか寝返りができるようになっていた。
おじいちゃん! 何からでも学んで、自分の成長につなげる、そのつもりなんだよ! でもね、お金稼いで、子どもに食べさせて、三時間か四時間寝るだけで精一杯なんだよ! 自分の成長になるような、いい仕事につけれるような勉強をしたいと思っても一秒だってとれない!
ナオミは空腹の息子にミルクを与えながら抱きしめ、息子を涙で濡らした。頬ずりする間にもウンチのロケット砲がオムツ越しにナオミの膝に響く。ウンチをふき取っているとオシッコが噴水のように吹き上がりあたりはびしょびしょになった。日々、成長し噴水の勢いが増す。赤ん坊はどんどん子どもになろうとする。そのうち少年になるなんて想像もつかない。
この仕事じゃダメ。いい父親になってくれそうな人を探せる仕事にしよう。自分の若さは、相応しい父親候補との恋愛を呼び寄せるはず。愛は一生に一回だけ? 不死鳥みたいに、フェニックスみたいに、何度でも蘇る?