ファンタズマ

記憶を辿り、アパート指定の駐輪スペースにバイクを停め、二階にあるであろう自室へと、外階段を上って行く。

部屋のドアの横の、真っ赤な郵便受けの上に、小洒落たデザインの、プラスティックで出来た【SANO】のネームプレート。一人暮らしの記念にって買ったネームプレートだ。

木や石で出来たカッコイイやつが欲しかったんだけど、そういうのは値段が高くて手が出なかったんだよな。

バイクのキーが付いているのと同じキーホルダーに付けている、見覚えのあるアパートの鍵を取り出し、ドアノブに付いている鍵穴に差し込み解錠し、部屋のドアを開ける。

部屋に向かって玄関に立つと、幅約七十センチ、長さ約二メートル半の廊下がある。申し訳程度の玄関の右側に靴箱があり、靴箱の並びには流し場と、冷蔵庫を置くためのスペース。靴箱とキッチンの、廊下を挟んだ反対側はトイレ付きユニットバスとなっている。

そのユニットバスの隣には若干のスペースがあり、洗濯機が置けるようになっていた。その狭い廊下を抜けた先の六畳間には、敷きっぱなしの万年床が見える。

そう、その部屋は、家具も当時のままの配置で、間取りも記憶のままだ。

いまだ信じられない気持ちを静めるため、ユニットバスに設置されている洗面所で顔を洗った。蛇口をグイッと捻り、強めに水を流し、両手で何度となく水をすくい顔を洗った。そして頭を上げ、壁に掛けてある鏡を何気なく見た時、再び驚かされることになった。

なんと、自分の顔も二十年ほど前の、二十代前半の時の容姿そのままなのである。全てが二十年前の世界ならば、当然のことと言えばその通りなのだが、改めて現実を突きつけられると、戸惑うしかなくなる。

ここである考えが頭を過ぎった。

『もしかして俺は、何らかの原因で二十年前にタイムスリップをしてしまったのか?』にわかには信じ難いことではあるが、そうとでも考えないと辻褄が合わない。

しかし、余りにも突飛な出来事で受け入れ難く、気が変になりそうだった。

なぜ? 二十年前の姿そのままに、この時代にタイムスリップしてしまったのか? 元の時代、元の世界に戻る方法はあるのか? 元の世界では、俺が居なくなったことに気付いて、騒ぎになっている頃か?

そもそも、うだつの上がらないサラリーマンだった俺は、妻とあまり上手く行ってなかったから、会社では騒ぎになっているけど、妻には大して気にされてなかったりして。

ちょっぴり寂しい気持ちになったが〈老後は家族と別れ、のんびり独り暮らしをしたい〉なんてことを真剣に考えていたので、そんな自分の精神力が今の状況を招いたのか?

そんなことを考えていたが『あれ?』元の世界に残して来た、妻や二人の子供達の名前が思い出せない。顔もモヤが掛かったみたいになっていて、とても不鮮明だ。

どうして思い出せないのか? それも俺の精神と関係しているのか?

様々な考えが浮かんでは消えて行ったが、元の世界に帰る方法など、今は知る由も無いので考えるのをやめた。