出会い

そのころの私は美保基地の輸送航空団に赴任して二年目に入ったばかりの整備幹部で、修理隊に所属していた。修理隊にはエンジン、油圧、計器、電装……といった多くのショップがあり、不具合品のチェック・交換というのが主な仕事で、私はその監督。雑多な事務も含め多忙ではあったが、特段の悩ましい案件があるわけではなく気楽な稼業という感じだった。

が一方では、不具合に際して稼働率を上げるために部品交換を優先し、原因究明を後回しにするどころかむしろ厭う体質に不満を感じてもいた。部隊勤務は初めての若僧だったが、整備部門では防大出身者の赴任は初めてだったので大事にされていたと思う。

私生活では、佐斐神という街道沿いの小さな集落がもっぱらの生活の場で、赴任したその日からパイロットの先輩に連れられて飲み屋に行き、即付払いの常連になるといった具合で我が世の春を謳歌し、「自分の稼ぎで生活し、独り身で自由。人生で最も輝くときネ!」などとマダムらに煽られ、連夜呑み歩くという日常の中にずっぽりと浸かっていた。

C-46が土曜日に起こした着陸失敗・擱座事故のことは週明けに聞いたが、修理隊との関係が生じるとは全く思わなかった。当然のこととして部隊整備の範囲を超えており、会社に委託するいわゆる「外注整備」が当たり前と思われていた。

その数日後のことだったと思う。整備主任に呼び出され、直接言い渡された。「29号機の事故は聞いているだろう。あれを元通りに修理して飛べるようにしろ!必要な部品、材料などは何でも言ってこい。全部手配する」

整備主任は何か自分でもいらだっていて、反論できる雰囲気ではなかった。殺し文句は「防大を出ているのだからやれるはずだ!」

機体は日常的には使われることのない第三ハンガーに収容されていた。ガランとした黴臭く薄暗い一角に、人目を憚るような佇まいで一機だけで寒々と係留されていた。プロペラの先端は両翼共に大きくひん曲がり、尾輪は壊れ車軸が破断していた。胴体の後部は捩れた状態で一部に皺状の破断が認められた。