こうしてみると、大自然という言葉にはかなり深い意味が込められているということが理解できます。大自然という言葉は、雄大な自然の佇まいを意味する言葉であると同時に、「自然界の万物を生み成した母なる自然」とか、「自然界の森羅万象を織り成す道理・法則」をも意味する言葉であるということです。

わたしたち人類は、地球誕生の謎や生命誕生の謎についてはいまだにはっきりとは理解できていません。ましてや、人工的に生命を創り出すことなど、今のところ人間(わざ)では叶わないことです。それらの難題をナチュラルに成し遂げてきたのが大自然なのです。ナチュラルに成し遂げたということは、誰か万能の絶対者がいて、意図的にそれを成し遂げたということではなく、自ずからにしてそうなってきたということです。自ずからにしてそうなってきたその道理が、実は万能の「大自然」であるということです。

わたしたち人間にできることは、その大自然の道理の存在を信じて付き従いつつも、その道理をどこまでもどこまでも問い深めていくということではないでしょうか。この大自然の道理を問い深めていくという営みは、精神的いのちをいただいている大自然の申し子「人間」だけにしかできない業なのです。

「自ずからにしてそうなっていく」という大自然の姿は、ちょっと目を凝らして見てみると、わたしたちの身の回りに数限りなく存在しています。豆の種子は、環境の恵みを受けて自ずからにして発芽し根を張り葉を広げて成長し、やがて種子を蓄えていのちのバトンをつないでいきます。

生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、母親の慈愛に満ちた育みを受けて、知らず知らずのうちに情味豊かに成長し、言葉を覚え、知識技術を身につけて大人に成長し、やがて次なるいのちを生み成していきます。

これらの植物や人間の成長の営みは、それぞれの植物や人間の主体的な営みのように見えているのですが、実はそこにはくまなく大自然の条理が作用しているということになります。人間にできることは、大自然の条理に沿うべく努力していくことなのです。

「自ずからにしてそうなっていく」という大自然の営みには、ほかにも特徴的な傾向が見られます。生まれたいのちは、まず自分のいのちを維持していくこと(死にたくないという本能的な資質)に固執するという性向を秘め持っています。そしてさらには、次なるいのちを生み成すための営みに固執するという性向も秘めています。野の生きものたちの生涯の起き臥しは、この「生命維持」と「子孫継承」の二つの性さがから紡ぎ出されてきていると言っても過言ではないでしょう。

ところで、大自然の申し子としての人間の場合はどうでしょう。「生命維持」と「子孫継承」の性については生きものとしての本能的資質ですから、基本的には人間の場合も野の生きものたちのそれとほとんど同じということになります。しかし、人間には精神的いのちが付与されています。

大自然の申し子「人間」だけの授かった精神的いのちは、後天的素養としての授かりものであり、人間が意図的・積極的に磨き整えていかなければならないいのちとしての授かりものです。人間には、生まれて後の育ちや学びによって、「どう生きてゆくべきか」を問い深めていかなければならないという命題が課せられているということです。