第三章 井の中の蛙井の中も知らず

十部族の日本渡来説を背理法で読み解けば

さて日本のキリスト教界(会)においては、B.C.七二一年に世界史の中から忽然と姿を消しその後行方知れずになってしまった人々、聖書に記された「失われた北イスラエルの十部族」の人々に関し、意見は真っ二つです。一方は黎明期の日本、建国以前の日本に既に「来ていた」というごく少数派のキリスト者です。

片や「来ていない。よしんば来たとしてもそれがどうした」と言わんばかりのグローバル・スタンダード、即ちヘレニズム・キリスト教に改宗した多数派のクリスチャンたちです。これは意見の相違が問題なのではなく、それぞれの側に属する信仰者の「福音」理解の仕方や歴史「観」、また政治的「立場」の違いによって真逆の日本宣教論が出現してしまうことが、問題なのです。それは福音理解における宣教論を救済論と混同したり、同一視することによって生じた疑似問題だからです。

宣教論としての提言を一方的に救済論として考えようとすれば、話が嚙み合わないのは当然です。しかし、その下には更に深刻な問題が、もう一つ潜んでいました。それは日本に対する立ち位置の有無、または視座のあるなしというある種普遍的な問題です。

クリスチャンとて日本人である限り、この問題に対して我関せずというわけにはいきません。ですからこれはキリスト教界(会)の仲間割れとか、内輪もめという低レベルの話では済まされない問題です。即ち、「日本人とは何か?」という問題の裏返しにもなるからです。

それは日本人の自己認識に関わる問題であり、「日本と日本人」の存在理由のところにまで及ぶ形而上的聖書的な命題でもあるからです。日本人の国民性とでも言い換えることのできるこの奇妙な問題に気づき、日本人として最初に「この問題」を取り上げたのが江戸後期の国学者、本居宣長です。

元祖「日本人論」の論客でもあった言辞学者は、これを「日本人の漢意」であると命名し、解明してみせました。「漢意」これ自体の是々非々を俎上にのせたのではなく、これに対する日本人の偉大なる勘違いと、その無自覚ぶりを嘆いたのです。曰く「日本人よ、己が漢意に目覚めよ! まずは己自身を知れ!」と言いたかったのです。

分かりやすく言えば日本人一般に通底する無邪気な漢かぶれと島国根性、それが招来する西方浄土への無定見な過大評価と憧憬、つまりは舶来かぶれのことです。その反動として日本蔑視が発動され、根無し草のような日本人ばかりが量産されてしまうという二面的国民性への言及であり、それへの警鐘です。昨今の欧米化現象がまさに、それなのです。