教育理論と成果のギャップ
この流れを受けて雑誌『現代』は、藤村の2回目の論文を掲載した10月号において、「中等学校の英語教育をどうするか」という質問を読者に投げかけ、投書を募りました。それに、各界、各層に及ぶ多数の人たちから1,870通もの投稿が寄せられ、そのうちの80余通が後続の号に掲載されました。
その中の一つ、『福岡日日新聞』の記者である金生喜造によって書かれた投稿では、有名な英語の先生たちが唱える教養価値と現実との間の大きなへだたりを、次のように指摘しています。
今日の中学校の英語教授は、岡倉先生の堂々たる御意見(岡倉由三郎が提唱した「8つの原則」:著者注)の通りに教授されていないことは否定し難い現実である。見よ、些細な文法の規則を忘れたものは、重罪を犯したものゝ如く叱責されているではないか。舌の曲げ方の下手な生徒は、一時間棒立ちに立たされて、いじめられ恥かしめられ、あざけり罵られて居るではないか。人々のプライドをきずつけ、人の子のすなおな品性を賊そこのうて、何の教養価値があろうぞ。
(「改善の余地多し」)
(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/277頁より)
さらに、当時発刊されていた英語研究者向け雑誌『英語青年』(研究社)では、1928(昭和3)年から1929(昭和4)年にかけてアンケート調査がおこなわれており、その集計結果は次のようなものでした。
(1)文部省が文政審議会に諮詢していた英語の授業時間削減と随意科案(進学と就職の2部制)には賛成が多かった、(2)英語教育の目的については「読書力の養成」をあげているものが多い、(3)教授法の改善と受験英語に対する批判が目立った。存置論者(つまりほとんどの英語教師)の見解は、多少のニュアンスの違いはあっても、大勢としては学校で教えている英語は実用にならないことを認めた上で、それでもなおそこには「教養価値」があるのだ、という主張である。具体的には、自国語に対する理解が深まる、言語一般に対する認識がが深まる(原文のまま:著者注)、他の文化(今でいえば異文化)を学ぶことができる、などといったところである。
(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/279頁より)
このアンケート結果について伊村元道先生は、『日本の英語教育200年』の中で次のように述べておられます。
つまりここへ来て、明治以来の西洋文明摂取のための「手段としての英語」、という考えが完全に放棄され、副次的、教育的価値だけでも英語科には存在理由がある、と主張されるようになったのである。後に「教養英語論」と呼ばれるようになるこの主張は、明治の岡倉においては英語教育の目的の2つの側面のうちの1つであったはずが、この頃から、実用に対立するものとしての教養、という存在になってきたといってよい。その代表的論客は、岡倉の弟子の福原麟太郎であった。
(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/279頁より)