ある日来たのよ、その男が。「運命の日」ってやつ。売り場で立っていたらその男が近づいて来たの。長身でスタイルがよく少し繊細な感じで、私は心の中で(どうしよう、どうしよう、落ち着いて、落ち着いて)と叫びながら
研修期間に何度も練習したように少し微笑んでお腹の上で両手を合わせ「いらっしゃませ」と頭を下げたの。
すると彼が「いま着ている背広に似合う明るめのネクタイを選んでくれないかな?」と微笑んだの。
その優しい微笑みに意識を失くしそうになるくらいボォ〜として一瞬言葉を失ったけど、やっとのこと「わ、わ、わたくしは今年入社したばかりで……別の者を呼んでまいります」と逃げ出そうとしたとき、
「きみに選んで欲しい。じつは今日のピアノ演奏会の観客はきみと同世代の女性ばかりだから」と。
そして「きみの年頃の女性の感性で選んで欲しい」と付け加えた。
心臓バクバクの逃げ出したい気分でそこに立ち尽くしていると、彼が「ネクタイ売り場に行こう」と私の手を引っ張って歩き始めた。
(えっ、こんなところで男性に手を握られるなんて)と周りを見渡したが、幸い誰もいなかった。
あとで考えれば、彼もそれを知っていて、おまけに私の動揺を見抜いていたから大胆になったんだろう。
ネクタイ売り場で少し息を整えて「どのような色合いがお好みでしょうか?」と訊ねると、「この背広に合うときみが思うネクタイを5本選んで持ってきてくれ。その中から僕が1本選ぶから」と優しく微笑んだ。
私はまだ垢抜けていなかったけど子どものころから村中の人に「べっぴんさんだね」とか「大きくなったらおじさんのお嫁さんになってくれ」とか言われ、デパートで働き始めてからもよく仕事帰りに男性に声を掛けられた。
ネクタイの棚の前で(何百本もあるネクタイからどうやって5本を選ぶんだろ。あぁ〜あ、あのとき声を掛けてくれた男性と付き合って男性の服装とか分かっていれば、こんなに途方にくれることもなかったのに)と考えながら選ぶ振りをしていた。
横の鏡をチラッと見ると彼が私の後ろ姿を見て微笑んでいる。突然後ろから「ねえ、きみきみ、そこの目の前にある赤地に黒い刺繍が入ってるやつ」と声が掛かった。
「これですか?」と手の平で指し示すと「そうそう。それに、それと同じような感じの色違いを選んでくれる?」私は振り向いて「かしこまりました」と頭を下げ、残りのネクタイを選び始めた。
(こんな田舎娘の心を見抜いて弄んでるのかしら)とちょっと憎らしかったけど、(素敵な男性だなあ)という感情のほうが優っていた。
選んだ4本と赤地のネクタイと鏡を持って彼のところに行くと、「体全体が見えるほうがいい」と全身姿見の前に歩いて行った。私は5本のネクタイを持って付いて行き、ネクタイをガラスショーケースの上に並べた。
彼は右に曲げた左手の掌に右肘を乗せ、頬杖を突くような格好で思案していた。
(京都か奈良の寺院にある頬に人差し指を当てた美しい仏像が教科書に載っていたなぁ)とか(長くて繊細ない指だこと。あの指でピアノを弾くんだ、聴いてみたいわ)とかボォ〜と考えながら彼の佇まいに魅入られていた。
決まったのか、彼が顔を上げ「この2本」と私が選んだグリーンの地と青地の2本を取り上げ、鏡の前に立った。
彼に並んで鏡の前に立った。近づいてわかったが、甘~いコロンが香っている。
田舎にいるとき男性の臭いは汗臭かったり、酒臭かったり、タバコ臭かったり、オナラの臭いがしたりで、心がときめくことはなかったが、隣りにいる男性にどんどん引き寄せられていくのがわかった。