「区報」に掲載されていた酒害相談の記事を見て、地元の保健所へ足を運びましたが、自分の名前も職業も言いませんでした。

ほんの少し話しただけなのに、対応してくれた保健師さんは、「学校の先生や公務員は非常に回復することが難しいんです。治らないんですよ。職場も外部への対応の時に、本人を庇ってしまいます。アルコール依存症は病気です。この病気は全てオープンにして、体裁や世間体など全てを捨てる覚悟がないと、回復が難しい病気です」と言われたのです。

「どなたのことですか」との問いに、私自身が世間体や体裁、職場への対応、自分自身を庇い隠そうとする心だったのでしょう、誤魔化していました。

「今は私には言えない。もう少し自分で頑張ってみよう」と。足取り重く保健所を後にしたのでした。

平成二年の暮れです。東京都立精神保健福祉センターに、初めて自分のこととして相談に行きました。アルコール依存症についての資料やパンフレットをいただき、家族のためのプログラムの個別面接も受けましたが、仕事をしながらの回復プログラムを受ける決心は、やはりつきませんでした。

平成三年の夏には、自分が耐えられなくなっていました。仕事で家庭裁判所の近くまで外出した時、「もう耐えられない。離婚したい。聞いてみよう」と、家庭裁判所へ立ち寄りました。

受付の担当官は、「家庭裁判所は、離婚を勧めるところではありませんよ。夫婦の話し合いによって家庭生活を続けられるように調停することが目的です。夫婦間の暴力は事件にはなりにくいです。まして、お酒の問題による不和は、奥さん側の非、飲ませてしまうことに言及されることが往々にありがちです」と言うのでした。決心できませんでした。

その頃は、夫婦間の暴力のことは、アルコール依存症という病気以上に、まだ世間には認知されていませんでした。

何年か後には、新聞に特集で「バタードウーマン」の記事が掲載されるようになりましたが、当時はまだ相談する窓口が公には少なかったのです。それから五~六年後には、街角の交番で「女性の安全相談所」の案内板を見かけるようになりましたが……。

平成四年には、何をしたいのか、何をしたらよいのかわからなくなっていました。

この先何を見据え目標にして過ごすのかと自問自答し、このまま死にたくない、死んでたまるかという気持ちと、それよりも「死んでしまいたい」という気持ち、「死んだ方が楽かもしれない」というところまで来ていました。そういう気持ちが覗くようになっていました。