【関連記事】恐ろしすぎる…「妊娠した妻」に向かって、夫が「衝撃の一言」
母となる
最初の子供を授かった時、この私が母になれるのかしらと思いました。不安と共に、とても心が浮き立ちました。
私は母親とは幼い頃から離れて暮らし、早く亡くしていましたので、心待ちにして子供が生まれて来る迄の間、自分の手で子どもの物を作りたい。慣れない針仕事に精を出し、おむつも全部自分で縫い、肌着も長着も本を見ながら作りました。出来上がるのを見ながら、それは楽しいひとときでした。
初めてお腹の赤ちゃんが動くのを感じた時の喜び、くすぐるような優しさ、とても言葉では言い表せないものが伝わってきました。成長するにつれ元気に手足を伸ばしているのでしょうか。お腹がぷくんとふくれます。楽しく嬉しい数カ月でした。
それからもう一つ、私にとって、結婚して彼から伝えられた「たった一つ」の、嬉しく感じた言葉です。
昭和四十七年の年末、長男が誕生した時のこと。その日はとても寒い日でした。お風呂に入って横になった時、じゅあ~と生暖かい「おしっこもらしたのかな」という感じ、慌ててトイレに駆け込むと、洋式トイレの便器の中に「乳白色の中に赤い色が混じった薄くきれいなピンク色」が見えました。
「あっ! もしかしたら、破水しちゃったのかしら?」と心配になりました。まだ予定日には一カ月も早いのです。
お酒を飲んで寝入っていた彼を慌てて起こし、通院していた産院へ電話しました。主治医は「十カ月に入ったところ、初産だから時間はかかります。慌てないできれいにして横になっていなさい。朝が明けてから来れば大丈夫です」と言われました。
でも、陣痛が始まりました。四時頃からは痛みが十分間隔くらいになってきたので、五時過ぎに電話すると、先生が「では、来てください」と言われました。
普通なら産院へはものの五分とかからないのです、タクシーを拾いたくても早朝のことで走っていません。おまけに、その朝はとても寒い暮れの街でした。羊水も出てしまっています。お腹は大きいし陣痛もあります。
お腹の大きい私を自転車に乗せていくわけにもいきませんから、寝間着の上に彼の大ぶりのドテラを着込んで、まるでダルマさんのような格好でした。
陣痛が治まっている合間に、ソロリソロリと歩いて行ったのです。約二十分位かかったでしょうか。
今思い出しても「ふっ!」とふきだしてしまうほど滑稽な姿だったことでしょう。
産院に着き、診察を受けると、先生は「もう口(子宮口)が開きかけている」「初産なのだから普通はまだなのになあ~」と言いながら慌て出しました。
その時、子供の頃に、祖母から「母さんもおばあちゃんもお産は楽だったんだよ」と聞いたことをふと思い出して……、だから私も楽に産めるのかなと、少し心が安まるのでした。
その日、産院は、生まれた赤ちゃんは皆退院していて、久しぶりに赤ちゃんが一人もいなかったので、当直の助産婦(当時は助産婦・看護婦と言い、現在は助産師・看護師ですが、以下、この項では婦と記します)さんも看護婦さんもいなかったのです。
先生の奥さんは、慌てて電話をして手配しているようでした。「玄関まで出て助産婦さんが来るのを見つけて、手を振って早く早くと言っていたよ」と、後で彼から聞きました。
「お湯を沸かして! 何々を用意して!」と先生の少し慌てた声が聞こえてきます。お産を待つ間、陣痛室で痛むお腹を、彼は一生懸命さすってくれました。
約五十分後のこと「しっかり力んで!」と助産婦さんの声です。さぁー誕生です。
でも赤ちゃんが泣きません。
助産婦さんが生まれたばかりの赤ちゃんを叩いたら「ふぎゃぁ~ふぎゃぁ」と何とも言えない柔らかい声が聞こえました。生まれたのです! 何という感激でしょう。
くしゃくしゃの赤ちゃんです。心配のあまり「五体満足ですか!」と恐る恐る聞くと、「大丈夫ですよ。元気な男のお子さんですよ」と。
ほっと一息つき、この私が「母」になったのです。母として一生懸命生きたいと心に想うのでした。
その時です。彼が顔を近づけて「ありがとう!」と言ってくれたのです。
今振り返るとこの時が一番幸せだったように思います。本当によかったあと……思ったのでした。
産後初めて口にした「シチュー」の美味しかったこと。赤ちゃんに乳房を与えた時の痛いようなくすぐったいようなあの感触、喜びは何にも勝るものでした。
今は、シチューは出さないと聞きました。時代によって変わるものなのですネ!