【前回の記事を読む】子が産まれてすぐに徴兵された男の悲愴…涙にくれる妻との別れ

母ミヤコ

母は好高出征当時の様子を九二歳の死の間際までまるで昨日のことのように、

「それがのー、赤ちゃんが生まれる三日前の夕方だった。晩御飯を食べながら好高さんに私の将来の夢を話していたんよ」

「ところがお晩ですと顔見知りの役場の人がやってきたん」

「二月の末の外は暗うてのお、今頃何事かと胸騒ぎを覚えた」

「えらいことになったで。近くなので早う持っていってあげた方がええと皆が言うんで持ってきたんや」と言うて赤紙を差し出した。見た途端、目の前がほんまに真っ暗になった。中国から帰ってまだ三年。

「二度目の招集など思いもよらんじゃった。立ちすくんでしもうた」

「髪の毛が総毛立った」

「髪の毛が総毛立つってあるんじゃの」

「国は本当に残酷だった。むごかった」

と力を込めて言うのが常だった。

「私の人生が赤紙一枚で台無しにされてしもうた」

「それに赤紙が来てからというもの辛かったこと。辛うて、辛うて子供を産むというのに食べ物が喉を通らんじゃった」

「好高さんが出征の日には、赤子を抱いて外に出るには出たが体が弱っていて、長くは見送りもできんでの、窓から好高さんを見ていたら集会場の所で何回も何回も振り返り、見えんようになったのが今でも目の前にちらつく」

「近所の家庭を見るとどんなに重い障害者になっていても、帰って来てくれたらどんなに良かったかと何度思ったことか。戦争は絶対したらいかん」

「他人は、戦争は皆大変だったんじゃがな。あんただけでは無いでとよく言うが、遺族と遺族でない人では全然違う」

「近所の家庭にはの、楽しい家庭のだんらんと希望があったがの、私の家は暗い暗い毎日があるだけじゃった」と口癖のように言い続けていた。

そのうえでいつも悲しみの底を見るような暗い目で「私達は生木を引き裂かれたようなものじゃった」と語る母の一生を思い、私は私で小さいころ近所の子供が夏の夕涼み、段付きの寝椅子の父に「父ちゃん、父ちゃん」とじゃれつく姿が羨ましくて仕方なかった事等が思い出され、戦争についてそれも市井の一人として戦争を調べて見ようと考えた。

おりしも、安倍政権の集団的自衛権の法制化や共謀罪の法案提出などが報道され、いつか来た道をたどるのではないかという思いも強くなっていた。