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第一章 春
ツルニチニチソウ
♪『この広い野原いっぱい』(森山良子)
窓際の作業机に陣取ること、一時間。眼鏡を外して外を見ると、青い花が咲き始めている。杏の木の下の三メートル四方の地面に、艶のある卵型の対生の葉をつけた蔓が縦横無尽に長く伸びて網目状になり、その上に、直径四センチ位の中心が白のラベンダーの色の五弁に切れた花が何十個も浮いて見える。
この花が蔓日日草だと知ったのは、十年程前のこと。花の名に詳しい人が何げなく口にして、図らずも覚えた次第。近所の小学生がどこかで摘んで、プレゼントしてくれた枝が、瞬く間に増えたものだ。
丁度その頃、『青い麦』という本を読んでいた。ブルターニュの海岸を舞台に、性に目覚めた少年と少女の揺れ動く心を描いた小説で、フランスの女流作家、コレットが著者だ。この小説の主人公の少女の名が、ヴァンカだった。ヴァンカとは蔓日日草のことで、花は淡青色、と注釈に書かれていたが、どんな花か確認せずにいた。『青い麦』を読み終えて何カ月後かに、身近にある花だと気付いた。
コレットは第一次世界大戦終結の二年後に『シェリ』を出版して、作家としての名声を得た。「ル・マタン」紙の文芸部長でもあり、舞台女優も経験し、スキャンダラスな作品と生活でも注目を浴びた人だ。『青い麦』は1923年、50歳の時に発表して、少年と中年婦人の関係が不純だと評された。
森山良子のデビュー曲、『この広い野原いっぱい』を作曲したのは彼女自身だ。若い森山良子の歌唱は折り目正しく、麗しい。作詞の小薗江圭子は、広い野原に咲いている花を全部あなたにあげる、と書き、赤いリボンの花束にして、と瑞々しい詞の一番を括る。
春の野原に咲く花はいくつかあるが、赤いリボンが映えるなら、クローバーが最適かもしれない。クローバーはシロツメクサとも呼ばれる。江戸時代にオランダから送られてきたガラス器の周りに詰められていたのが、枯れたこの花だったため、白詰草となった、と知ったのは、大人になってから。花冠を編んだ子供の頃は、「白爪草」だと思っていた。
試しに、蔓日日草のブーケを作り、赤いリボンで結んでみた。この赤は翁草の花の色。翁草は名とは裏腹な華麗な花の山野草だ。しっとりした手触りの蔓日日草の花も、若々しく活動的で、情感に満ちた昨今の森山良子の歌声も、この赤が引き立ててくれるといい。