第一章「新しい街」

小雨、なかなか止まないなあ。

高倉亜紀は、クリーム地に白とブルーとグリーンの幾何学模様が入ったお気に入りの傘を閉じ、水滴を払った。

高校生の亜紀がバイトしている駅前のパン屋『ルノ』は、以前テレビ番組で紹介されてから、行列の出来る人気店にランクアップした。そのためか、バイト募集の張り紙が出た時10人もの応募があって、まさか採用されるとは思わなかった亜紀は、本当にラッキーだったと思っている。

亜紀が『ルノ』にバイトが決まったと報告した時、母は、「よく10倍の難関を突破したね」と亜紀以上に大喜びしてくれたのだった。

店長の春野覚とチーフの篠崎玲はいとこ同士。細身で長身の二人は、雰囲気が似ているイケメンである。もちろん独身。それも、『ルノ』の人気の要素かなと亜紀は考える。

店長とチーフは早朝からパン作りに取り組み、パンの販売は主にパートの主婦2名でローテーションしていて、亜紀は月、金の夕方5時からと、土曜日を受け持っている。月曜日の今日は、高校の授業が3時半で終わるので、超特急で帰ってくると5時からのシフトに入ることが出来る。

裏口から休憩室に入る。

「高倉亜紀、入店しました」

亜紀が奥に声を掛けると、

「はーい、お疲れ。今日もよろしくね」

奥からではなく店先から、店番をしているチーフの玲が返事を返してくる。店長はいないようだ。

「いらっしゃいませ。ごめんなさい、日替わりは完売なんです」と、チーフの声。

やっぱり日替わり調理パンは人気だな。

『ルノ』の調理パンは何種かあるが、中でも美大卒の店長が作る「日替わり」を冠した調理パンは、その名の通り日替わりで、食べるのが惜しいくらいかわいいデザインとおいしさが絶賛されているが、毎日50個しか作らないため、午前中で売り切れることが多い。

数を増やそうにも今の設備では50個が限界だと店長は言うが、本当は、手間が掛かりすぎて面倒くさいというのが本音だとチーフが亜紀に話してくれた。

おまけに、「店長は商売する気がないんだよ」と頭の上に指で渦巻きを作る。店長がそれを見て憤慨しているなんてことは日常茶飯事だ。漫才のボケとツッコミみたいな二人だが、息が合っているなと亜紀は感じる。

販売員が留守になる時の店番は、ほとんどチーフがしている。調理室用の白衣のまま店番に出るので、近所の子どもたちからは『ルノパンマン』と呼ばれていると自分で言っていたが、本当にそう呼ばれるのをまだ聞いたことがない。

ただ、チーフが店番に出るのを見計らったように来るという女性客をパートの西島さんと小山さんがチェックしていて、常連5人をリストアップしていた。でも、リストの中に当の二人も入れておいたら? というのが亜紀の意見である。