その日、気づいてみると、商品は落ちたり、棚は壊れてしまったりしていたが、お店の中にある蔵の屋根瓦は一枚も落ちていなかったし、蔵の壁にひび一つ入っていなかった。隣の家の蔵は、壁がはがれ落ち、近所の蔵はすべて崩壊していた。大地震の夜は停電していたし、片づけで疲れていたので、二人、二階の寝室で日本酒を呑んでいた。

夜八時ごろ、暗闇の中、「ドンドン」と玄関の戸を叩く音がした。階下に降りて行き、玄関の戸を開けると、角田市の防災安全課の方で、「夜分にすみませんが、マルセンさんだけは、使い捨ての丼や紙コップなど必要な物を売っていらっしゃるので、すみませんが、市民のために、明日から、お店は閉めないで、開けていてくださいね」と言われた。

社長の克裕は、当時の市長の大友喜(おおともき)(すけ)さんとは、角田高校時代の同級生で、「かっちゃん」「喜助」の仲だった。だから、「おお、わかった、喜助」と停電でレジも使えない中、翌日から、懐中電灯で電卓を照らしながら、お店を開け続けていた。

お客様は、「ああ、開いててよかった」とか、「胸まで水につかって、山元町から、トンネルをくぐって歩いて来たんだ」などと、ずぶ濡れの服で来た人もいた。みんな、使い捨て丼や紙コップ、業務用の冷凍食品や、缶詰などを買っていった。

当時、トラックなどの流通は、すべて止まっており、克裕は、売る物がなくなってくると、近くのたまご舎さんから生卵を何箱も現金で仕入れてきては、うちの店で売っているタマゴパックに入れて店内に並べ、「これをゆで卵にでもして喰うといいぞ」と、お客様に声をかけて売っていた。

また、別の日には、漬物を樽で漬けている農家の方に袋詰めにしてもらったり、パンを焼けるお客様からパンを仕入れて販売したりして、喜ばれた。市内や近隣の市町村の病院からは、紙コップや丼パックも、たくさん買いにいらした。そして、克裕は私たち家族のために、仕事の合間を縫って何回も、角田橋の向こうまで、水を汲みに行ってくれた。

私たちは二人とも、人と接することが大好きである。まるで、十数年も飼っているゴールデンレトリーバーのように、人懐っこい二人である。それゆえ、東日本大震災でもうお店が続けられなくなるかもしれないという、悲しい想いをしたものの、壊れた物を、まるでブルドーザーのように、バリバリ直していく夫のおかげで、みごとマルセンは、復活を果たしたのであった。