母ミヤコ
私の母は大正六年三男三女の次女として四国の景勝の地大歩危に生まれた。小さいころから人懐っこく人さえ見れば明るく微笑み、弟妹の子守りから始まり養蚕・畑仕事・牛の世話・大所帯の賄・掃除と身を粉にしてくるくるとよく働いた。
「日浦のミヤコさんは、色は白いし、鼻筋も通ってほんまに女優のようじゃ。この付近に置いておくのはもったいないのー。それによく働く」と誉れ高く、近在は言うに及ばず縁談話は引きも切らず、祖母は「女の子を育てるのは、こんなにも楽しいものかと思った」と折に触れ話していた。
母が後年私に「他人は仕事が可愛いんぞ。お前が可愛いのでも憎いのでもない。可愛がってもらおうと思ったら人一倍仕事をせー」とよく言っていたが若い時のこのような経験によるものだったのだろう。
そのミヤコも山奥での日長一日働きづめの生活を抜け出そうと、家の近くに嫁がせたい両親の説得を振り切り住友別子銅山幹部のI家のお手伝いとして雇われた。(母はI家の信頼篤く六〇年後、長女のロスでの保証人も母の孫ならばと二つ返事でお引き受け頂いた。唯々感謝である)
母としては夢のような生活で、三男二女の世話と賄の手伝いも、山での生活を考えれば何の苦にもならなかった。奥さんも「姐や、ここにいれば必ず良い人を見つけてあげますからね」と気に入られた矢先、父危篤の電報が入り急ぎ帰郷したところ、父は元気で近在の素封家との縁談話であった。
父母は願ってもない話と大乗り気で「こんな話は滅多にないぞえ。何が不服なんなら。あそこに嫁げば一生安楽じゃ。息子さんも大人しいしええ人じゃ」と……。母は当時としては大柄一五四㎝スタイルも申し分なく、その息子とは山道で数回すれ違ったが、その時の小柄で暗い感じを思い出し頑なに口をつぐむだけだった。
ところで何かにつけ目立つミヤコに比べ小柄で八四歳で亡くなるまで「私は」と言ったことが無く、万事に控えめ、「そーかえ」が口癖だった二歳上の姉が、その地域では長者さんと言われていた家の三歳上の克良に望まれ、あれよあれよという間に嫁いでしまった。
私もその「そーかえ」を聞いたことがある。「そ」を伸ばしアクセントも「そー」にある。相手が誰であれ、どのような事であれ、ふさぎ込んでいるような時であれ、いやな顔一つ見せず優しそうに眼を和ませながら、顔をのぞき込み決まって「そーかえ」である。私も包み込まれるような満たされた気持ちになったことを覚えている。私は未だかって伯母の言うその「そーかえ」に出会ったことは無い。
義兄となった六尺近い筋骨たくましい大男の克良は、ミヤコが大勢の近所の人と立ち話をしている時、自身が急坂で頭上高く背負子に薪を背負い息を切らしている時でさえ、会えば必ず立ち止まり嬉しそうにニコニコと「ミヤコさん元気かえ」と声をかけてきた。
笑みを絶やさぬ克良は村の人気者で若者頭でもあった。ミヤコはそんな克良を自分に相応しいと密かに思いを寄せ、彼も又自分に好意を寄せてくれていると思っていただけに、寂しくもあったが山村の生活に見切りをつけていたミヤコには将来が開けた想いで素直に姉を祝福できた。
その姉は近在でも評判の口うるさい一〇一歳まで生きた舅と八七歳で亡くなる姑に、ほぼ四〇年間愚痴の一言も言わず、笑みをたたえて「そーかえ」と仕え、自分の三男三女にも怒った顔も悲しげな顔も見せなかった。
母は昔を懐かしむように「あの頃の日浦では皆が助け合い、年寄りに仕えるのは当たり前で、ほとんどの家が隠居の別棟を建てていた。年寄りは大事にされていたもんじゃ。それに愚痴や悪口を話すのを聞いたことがなかった」「悪意などとは無縁の世界だった」と笑みを浮かべながらよく話したものだった。