密かに恋をした頃が、恋しい。相手をこの手の中に抱いている確かさ、安心感を求めて心が千々に乱れながら、それでもその人のことを思い続けるあの心こそ、真面目に生きている証拠なんだ。そう、人は恋をしているとき、自分に正直になり、自分の心に向き合うことができる、ということを、僕はあの女性と語らった一瞬だけ、味わうことができた。
人間は、恋をした方がいいような気がする。僕の身勝手な感情かもしれないが。僕の夢の中で僕を追いかけ回している髪の長いシャドーは、僕が追い求めているあの女性への憧れ、思いなのだろうか?ああ、恋が欲しい。今の僕をこの苛立ちの中から救ってくれるほどの恋がしたい。
世界広しといえども、僕が、赴いた海外の都市の数々に比べれば、風の女は、地球の果てどころか、宇宙へも行っているはずだ。風の女は、世界どころか、どこまででも行けるのではないかと、嫉妬した。あの女性の幻影とともに風の女は、僕の行く先々に現れ、僕に何かを思い出させようとしては消えていった。
風の女は、僕の前から姿を消しているとき、いったいどこに行っているんだろう。別の男の前に現れているのだろうか? 別の男には、どのような姿をして現れているのだろうか? 僕だけの風の女でいてくれないのか?
風の女、髪の長いシャドーだけの女性の幻影。今さらながら、彼女のことを思い出して切なくなる僕は、どうかしている。もう数十年も昔のことではないのか? だが、なぜいつも、僕の心がざわついているときに、風の女はあのシャドーとともに現れるのか? もう忘れたいと思っているのに、思い出させようとするのか? わからない、わからないことだらけだ。
──風よ、吹いてくれ。と思う気持ち。これは、恋心なのか。恋煩いか。恋の病か。叶わぬ恋。疑似恋愛なのか。
そういえば、僕は、あれ以来、恋に落ちたことがない。今さらながらそのことに思い至った。付き合った女性は何人かいたけれど、それは恋にはならなかった。SEXもしたけれど、それらの女性の面影さえも、僕は全然思い出せない。朝、目が覚めたら、ホテルのお洒落な部屋で、素っ気なくシャワーを浴び、二人でモーニングコーヒーを飲んでいたこともあった。
だから、恋ではなかった。だから、真面目ではなかった。だから、皆、僕の前から消えていった。思い出すのはいつも、髪の長い、ディスコで一人踊りながら言い寄る男を払いのけて、少し寂しげな表情で踊り続けていた彼女のことだけ。行きつけの“BARGOYA”に誘って、いつまでも語り合っていたあのときのことだけ。
名前も言わず、アドレスも言わず、ただ小さな肩から、腰まで伸びた長い髪の毛を揺らしながら、扉を開けて出ていった彼女の後ろ姿だけ。会いたい、無性に会いたいとふと思い出すあの女性。いつしか記憶のかなたに消えているのに、ある日突然、風の女に頭を揺さぶられて思い出してしまう彼女の幻影。そのときだけ、僕は真面目になる。
浮き世では、恋一夜。一夜の、行きずりの女とのつかの間の逢瀬、なんていうこともある。風の女への恋心、なぜか、自分の心に向き合っている自分がいる。
──君は真面目なんだよ。真面目すぎるんだよ。
──そうさ、僕は、風の女を思うときだけ真面目なんだよ。
僕は思考の渦の中で、目の前にいる友人と会話していた。