第一章「着信」
「えーっと……雪野、雪野……」
胸ポケットから出した携帯電話の画面を指でなぞり、彼女からの着信履歴を探す。
「あった、雪野雫」
半年ほど前に同じ家に住んでからというもの、電話をすることなんてめっきり減ってしまったせいか、何度かスクロールをしてやっと表示されたその名前をタップする。
ちょうど会社を出たころかなとぼんやり考えながら受話口を耳元に当てる。
♪♪
「はい、雪野です」
電話の向こうから、がやがやと雑音が聞こえる。彼女は細くて通らない声を少し張っているようだ。もう長い付き合いだというのに、僕からの電話にも「雪野です」なんて毎度真面目に対応するのが少しおかしくて、そしてそれが可愛らしくて頬が緩む。
「透くん?どうしたの?」
「雫まだ会社だった?」
「ううん、今は駅前のデパートだよ。待ち合わせまで少し時間もあるし」
どうやら帰宅ラッシュの時間だからかあたりは混み合っているようで、電話越しに聞こえているのは雑踏の人混みの音のようだ。
彼女の会社は僕の会社と大通りを二本挟んですぐのところだから最寄り駅も一緒なのだが、彼女の方が出勤時間が遅くて、僕と違って残業はほとんどないので帰る時間が早い。
だから二人で一緒に通勤することはめったにない。会社の人に二人で仲よくしているところを見られたら恥ずかしいからと、控えめな性格の彼女が言ったのも一緒に通勤しない理由でもあるけど。
「買い物?」
「うん。うちの会社の新作のリップが出てね、それに合う色のアイシャドウもほしいなって思って」
ふふっと耳元に小さく微笑みが聞こえた。今日の彼女は朝からずっとご機嫌だ。昔は長い髪をびしっと一つに低めに結っていておしゃれには無頓着だった彼女だが、大学生のころから少し気を遣うようになって、化粧品会社に勤めてからというもの周りの社員の影響もあってか見違えるほどあか抜けた。
今ではすっかり『都会のOL』という言葉がぴったりになっている。
「それで?何かあったの?」
「ごめん、後輩の資料を見ないといけないんだ。だから今日の待ち合わせに少し遅れそうで……」
店には僕が連絡しておくから、とご機嫌な彼女に伝えるのは本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。多忙な業界だとはいえ、これまで何度も仕事を理由に彼女との約束に遅れてしまったり、キャンセルしてしまうこともあったから、こんなやり取りも数えきれない。
「もー……また?」
ちょっと呆れたように、でも怒ってはいない穏やかな口調だ。
「……ごめんなさい」
「後輩って坂口くんでしょ? 坂口くんも最近いろいろ任せてもらえるようになったみたいだし大変だよね。頑張ってね、って伝えておいて」
雫にはなんでもお見通しのようだ。あれだけ楽しみにしていた約束に遅れてしまうというのに不満の一つも出ないし、それどころか気遣いまでしてくれる彼女の優しさに僕は本当にいつも甘えてばかりだ。
「いつもありがとう。すぐに終わらせるから、どこか座れるところで待ってて」
「仕事だもん、気にしないで。それに今日は透くんのおごりでデザートも頼んじゃうって決めたから」
「オッケー、なんでも好きなだけ頼んでいいから」
「やったー。じゃあ終わったらまた連絡してね」
ごめんとありがとうを再度伝えて電話を切る。急いで予約していたお店に時間変更の連絡をしてから足早に執務室へ戻る。