その年の暮れ、井口哲郎さんから再び手紙があり、『跫音』同人の一人、小塚項平さんの消息がもたらされた。京都に移住した、この時八九歳の小塚さんは、井口さんとの交流を機に中学時代の追憶を書いてみる気になったと言い、翌年四月小塚さん自身から「遠い日の思い出」(筆名、小塚晃平)と題する文章が私に送られてきた。原稿用紙八五枚にわたる長文のものである。
中谷治宇二郎作「獨創者の喜び」は、ペンネームを中谷杜美。中世時代に題をとった一五、六枚の小説でした。当時中谷さんは、小松町京町辺の、妹富子さんのもらわれ先の、しもた家の明るい二階の家にいて、私は一度だけ訪ねたことがありました。彼がどんな文学書類を読んでいるのかと、見まわしたが、厚めの「石川啄木著作集」が一冊だけだったようでした。「獨創者の喜び」はこの部屋で書かれたのでした。(小塚晃平「遠い日の思い出」未発表)とある。
「中世時代に題をとった」作品というのは、芥川の言う「平家物語に主題を取つて書いた小説」と齟齬はなく、「獨創者の喜び」が芥川の取り上げた作品であることは間違いないと思われた。治宇二郎は初号に創作「その一日」を書いたということも書かれていた。ここに「妹富子」とあるが、正しくは「妹文子」である。
翌々年秋のことである。由布院亀の井別荘武子の長男中谷健太郎から作家丸谷才一の随筆「夜中の喝采」が載っている『Japanavenue』一五号が送られてきた。芥川の書いた「一人の無名作家」について触れているという。ところで芥川龍之介が一九二六年(大正十五年)に書いた『一人の無名作家』といふ短文があります。七、八年前に地方の同人雑誌で読んだ、作者も題も覚えてゐない短編小説を賞讃したものです。
……彼に褒められた同人雑誌作家の名は、いまではわかつてゐます。雪の博士として有名な中谷宇吉郎の弟で考古学者の中谷治宇二郎。考古学者になり、フランスに三年ゐたが病死した。問題の短篇小説は中学五年生の時の作ださうで、早熟の才がうかがはれる。地方の中学生は大正文学の忠実な弟子だつたから、師匠筋に当る東京の作家たちよりもつと熱烈に、藝術とか天才とか個性とか霊感とかを信じてゐたのです。(丸谷才一「夜中の喝采」『Japanavenue』三︲四)「無名作家」
治宇二郎が再び取り上げられたことは望外のことであった。二〇〇六年(平成一八)六月、ようやく加賀市大聖寺町の中越芳子さんのお宅を訪ね、『跫音』(三号)を手にすることができた。複写の許しを乞うと、あっさりと「差し上げます」と言われた。私は大変驚いたが、中越さんはこの三号を自分が持っているよりも、何処かで郷里のために役立つならば、と思われたようであった。
確かに、この三号によって二号に載った「獨創者の喜び」についてその時の様子を知ることが出来たし、芥川の「ある無名作家」が治宇二郎であることの確証も得られたのである。二号の発見は更に九年を経た後であったからこの三号の情報は大変貴重なものであった。