「私は人生の心構えとして恋などすまいと思っていました。それは父がそのように仕込んだのかもしれないし、私自身が恋愛というものを全く信じる気になれなかったからです。信じられるものは、『自分が経験してきた』片想いだけなのです。これだけは絶対に信じられます。
何の報いも期待せず、それが淡いものだったなどとは到底言えず、悲惨で、ある意味ではとても崇高な青春時代でした。私は心の底に自分の気持を閉じ込めて、純粋なままで大切にし続けようと決心したのです。
永久に一本道であろうと思っていた、ずうっと遠くに居た沖田さんが、私の方を振り向いて下さって本当にありがたく思います。それなのに私は、出会いの偶然というよりある意味必然? であった事にこだわってしまうのです。
私達が相手を意識し、好きになる時間的経過のずれが長すぎた事が、何となく純でないものに思えてしまうのです」(41年11月 緒田啓子)
「信ずる事の出来るのは片想いだけだというのは、理論的に考えると少しおかしいと思います。貴女が非常に純粋であるという事はわかります。
恋などすまいとしていても、本当に自分が好きになりお互いに理解しうる状態であるならば、信じる事は出来ます。貴女の言いたい事はただ一つ、お互いに最初からこの人でなければという強い気持の上で発展した恋愛しか信じられないという事なのでしょう。
これは勿論、理想ではありますが。僕にとって貴女は全く別世界の人で、遠くからいい人だなと思うだけで、積極的な行動に出るという事は思う事すら出来ませんでした。僕には全く自信というものがなかったし、貴女の周りにはかなりの男性ファンがいました。
これは貴女を侮辱しているのではなく、貴女の人格・人間性の良さの証明以外の何ものでもありません。僕にとって貴女は、一つの偶像であって、決して貴女が僕を好きになるという事は、考える事すら出来なかったのです。この気持、わかってもらえますか」(41年12月 沖田陽一)
喫茶店での密かな逢瀬、数日おきの手紙のやり取りの中でお互いの心は通じ合い、確実に信じ合える仲となっていった。来月からは長い長い卒業試験が始まるので、二人とも勉強に打ち込まなければならないのに、時間の少ない事が悩みであった。