【前回の記事を読む】短いけど会話できた!スペイン旅行で言語の壁を越えた瞬間
ゲルニカとの対面
はじめに、八号から十号くらいのサイズの絵がたくさん展示されている部屋に入った。
そこで最初に目についたのは、有名な「泣く女」である。ゲルニカに描かれているいくつかの部分画と思われる絵をはじめ、ピカソの技法の変遷を示す作品などもあったが、ゲルニカを見る前に知っておくべき基礎知識として意図したものだろう。
それらの作品を見終わってうしろを振り向くと、大きな部屋に通ずる入口があった。その部屋は「ゲルニカ」の完成作品だけで他には何も展示していない。予想を超えた大きなサイズであった。高さ三・四九mで幅が七・七七m。
その絵の前に立って見つめると、ピカソの心のうちにある「怒り」が込められているものを感じ取れた。残念ながら写真を撮ることはできない。そこに立つこと三十分ぐらいだったろうか。もう一度前の部屋に戻って部分画を見なおし、そして改めて「ゲルニカ」に戻った。
「ゲルニカ」の前に立ち、「山路商はなぜシュールレアリズムに傾倒していったのか。何故特高は商を捕らえて八ヵ月もの長い期間拘束し、取り調べなければならなかったのか」を考えた。
ゲルニカ誕生の時代背景
シュールレアリズムは破壊勢力か平和勢力か
一九三○年代当時、世界ではロシアで起こった共産主義革命成功の影響が忍び寄って来ることが極度に恐れられていた。日露戦争以降、富国強兵を旗印に帝国主義をまっしぐらに突き進んでいた日本でも同様だった。
日本国民の中にも戦争に反対する勢力があったが、シュールレアリズムがその反対勢力(つまり共産主義革命を目指し政府転覆を図る勢力)の根源であるかのように睨まれたのだろうか。この疑問を解く鍵を、ピカソのゲルニカを直に見ることで見つけることができるのではないか、とぼんやりと考えていた。ピカソがゲルニカを描き上げた前後のスペインの国情を知ることが必要ではないかと考えたわけだ。
ヨーロッパでは防共勢力としてファシズムが台頭していた。ドイツのナチズム、イタリアのファシズムが力を得てその勢力は大きくなりつつあった。それらの勢力との対立軸として、ゲルニカ(ソフィア王妃芸術センター所蔵)社会主義あるいは人民主義を標榜する潮流があった。
そうした状況の下で、日本はドイツ及びイタリアと三国防共協定を結んで、勢いを増しつつあった社会主義勢力に対峙しようと当時の政府は考えていた。というのはひとつの局面であり、さらにもうひとつ拡張主義という局面も持っていたことは否定できない。それは、帝国主義が持つ隠しおおせないダークな目的であったからだ。
スペインでは、フランコ将軍が、ドイツやイタリアと同様の政権運営を図って、人民戦線を軸とした共和国政権(必ずしも共産主義勢力ではない)を追い詰めていた。共和国政府側に属していたバルセロナの勢力もフランコ将軍により徐々に攻め込まれたが、ピカソはこの頃既にフランスにおりバルセロナにはいなかった。いわゆるスペイン内戦時代だ。
そうした国際政治上の背景があって、ドイツやイタリアと組んでいた日本の軍事政権も、ピカソ等の主催するシュールレアリズムは反政府勢力の根源であると見做して、思想統制を図ったものであろうと思われる。