ただ、音声(言語)の場合、近くで誰かに大声で話されると、聞く気がなくても(注意を向けるつもりがなくても)聞こえてしまう(音韻的に理解してしまう、理解させられてしまう?)ということがあるように思います。

この場合、注意との関係は難しいです。一般に意味の分析にも、その方にとっての意味処理の水準の深さや段階、とらえ方などがあり個人差もあるかもしれません。ここで音声と注意との関係について、簡単に私の考えを申します。

まず、耳から入った音や音声の情報は(とくに注意がされていなくても)、すべてはじめの段階での処理を受けていると考えます。このはじめの段階での処理というのは、例えばそれが何かの物(物品)などによる音なのか、何かの機械による音なのか、自動車の音なのか、楽器の音なのか、人の声なのか、動物の声なのか、風で木が揺れる音なのかなどの(ある程度の)同定ということです(これは物理的な段階での処理といえるのかもしれませんので、とくに意味処理というべきかどうかはわかりません)。

ただ発話(言語)に関しては、表面的な認識(誰かが何か言った程度の知覚)と、内容の理解(音韻的な意味処理)の段階などがあると思われます。

ところで、もしもはじめの段階で、どのような音にも同定されないような音が聞こえたとすれば、それはその時点では、純粋に物理的な音そのものというしかないものでしょうが、日常生活でこのような音を経験することは、まずないように思います。もちろん、何の音なのかよくわからない場合もあるとは思います。

例えば自動車の音なのか風の音なのかよくわからないというようなことです。ただこの場合でも、人の声ではないということはわかっています。

もしも本当に、何の音なのか、その起源も全くわからないような(未知の)音が聞こえたとしたら、「今の音は何だったのだろう」ということとなり、音の解明に(全)注意が集中してしまうでしょう。

つまり、音声はすべて聞こえた時点で何かがわかっていて(はじめの段階での処理は受けていて)、もしはっきりとはわかっていなくても、だいたいの推測はされていて、とくに問題ない程度の認識で(ほとんど無意識的かもしれませんが)、それ以上の特別な注意も向けられないということと考えられます。

また、このとき誰かと話をしていたりするなど、注意が他に向いていれば、音声にはとくに注意は向けられず、(はじめの段階での処理がなされたあとは)それ以上の情報処理はされず、記憶もされないということになると思います。

例えばレストランで誰かと食事をしているとして、相手との会話以外に、他のお客さんの声、店員さんの声、スプーンと食器の音、店内の音楽、近くを通る自動車の音など、さまざまな音声が聞こえてくると思いますが、そのほとんどは、さきほどお話ししたはじめの段階での処理を受けたあと、それ以上の処理はされないで忘れられることとなるでしょう。

ただここで、厨房から少し大きな、お皿が割れるような音がすると、その音に注意が向いて、「店員さんが間違ってお皿を落として割ってしまった音かな」などと音が分析されるのです(意味的な処理がなされるのです)。

この場合、この音は、はじめの段階での処理がなされたあと、それが大きな音で、特殊な音だったために、それに注意が向けられ、(いわば深く)意味的な処理がなされたということになると考えられます。