一般に言語現象を分析・把握する立場として規範主義と記述主義がある。規範主義は言語活動の一定の基準を想定して正しい用法を重視する立場である。この立場は言語現象の変化に対して概して保守的である。言語はいかに使うべきかという立場であり、規範文法とか学校文法はこの立場によるものである。記述主義は一定の時期における実際の言語現象の究明・記述をする立場である。この立場は言語現象の変化に対して概して寛容である。言語はいかに使われているかという立場であり、記述文法はこの立場による。

辞典を作るときにも、その編集方針として右記の言語観が反映されることになる。『広辞苑』は規範主義の立場をとり、『大辞林』は記述主義の立場をとるといわれている。

『広辞苑』では規範的な本来の語義や用法が重視されるので、日本語の語義や用法が歴史的(古い順)に記述され、より古い語義や用法が辞典の前のほうに記述され、より新しい語義や用法は後のほうに記述されることになる。『大辞林』では日本語が現在どのように使われているかに重点を置いて記述される。現在用いられている語義や用法を中心に記述されるので、新しい語義や用法が前のほうに記述され、古い語義や用法は後のほうに記述されることになる。

したがって「大麻」の語義として『広辞苑』では「伊勢神宮および諸社から授与するお札」という古い語義が一番目に記述されるが、『大辞林』では「アサの葉や花序から製した麻薬」という現在より多くの人に用いられている語義が一番目に記述されることになる。

さらに「仕様書」という日本語によって両辞典の記述の違いを比較検討してみよう。『広辞苑』では見出し語としての読み方は「しようがき」となっており、「①仕様の次第を書きしるした文書。②複雑な設計を要する注文品の内容や図をしるした書類」と語義が説明され、「しようしょ」という読み方が最後に追記されている。

『大辞林』では見出し語としての読み方は「しようしょ」となっており、「しようがき」とも読まれると追記されている。語義は「①やり方や、その順序を記した文書。②建築・機械などで、注文品の内容や、図などを書いた書類」となっている。①には「作業の仕様書」という用例も挙げられている。

仕様書の語義については『広辞苑』も『大辞林』も類似の記述であるが、読み方は『広辞苑』では「しようがき」という本来の読み方が見出し語になっており、『大辞林』では「しようしょ」という現在広く行われている読み方が見出し語になっている。

現在の日本の職場などで「しようがき」と読む人は高齢者か強烈な規範主義者ぐらいのものであろう。昔は「しようしょ」と読んだら、その読み方は間違っていると指摘され、「しようがき」という読み方を叩き込まれたであろうが、現在ではほとんどの人が「しようしょ」と読むので、いわば間違った読み方が市民権を得てしまったということになる。

言語現象の変化ということになると、赤信号みんなで渡れば怖くないという側面がある。このように現代語の用法を重視する立場が記述主義である。